『恋と夏』 ウィリアム・トレヴァー

恋と夏 (ウィリアム・トレヴァー・コレクション)

恋と夏 (ウィリアム・トレヴァー・コレクション)


遠い日に聞いた修道女と薪男の話を回想しながら、「どう違うの? ねえ?」と問いかけるも、「・・・自分には守り切れない約束をしてしまったのだ」と回顧するも、今となっては何もならない。
「恋」というものは一種免罪符みたいなもので、倫理にもとることも、誰かを傷つけることも、その名のもとに許され、むしろ美化される――といいうような話は、私は好きではない。
それがどうだろう。
この物語の「恋」は、一言でいえば不倫である。にもかかわらず、この物語が私は愛おしくてたまらない。
なぜなのだろう。


片方は、夫持ちのエリー。既婚者であるけれど、今度の恋が真摯な初恋である。
片方は、もうすぐこの地を離れる青年フローリアン。別に愛する人がいるが、この地を去る前に、夏の思い出を作りたいだけの青年。
それぞれの境遇が明らかになってくれば、二人の恋人同士が、あどけない子どもなのだと思えてくる。
エリーは、修道院育ちの孤児で、修道院を出て働き始めた農場で、やがて雇い主と結婚した。世間知らずの少女のまま、まだ恋をしたこともないまま。夫は誠実でよい人である。
フローリアンは、永遠に子どものままの人。何をやっても長続きはせず、それなりに才能はあるけれど、決してモノにすることはない。
身寄りがない少女と、たっぷり愛されて育ったが愛してくれる人をすべて喪った青年。
この夏のひととき、他の部分はすれ違うばかりであるとしても、二つの(別種の)孤独な心が、互いの孤独に共鳴したのかもしれない。


前世期の半ばごろ。アイルランドの田舎町。静かに丁寧に、人びとの営みと風景との描写が続く。


小さな町である。人びとの生活は篤い信仰と結びついている。
ほとんど顔見知りの人びとで、誰もが何でも知って居そうな(実は何も知らない)狭い世界である。
それぞれがそれぞれなりの思い出をもって生きている。
決して忘れることのできない深い傷も抱えている。
その傷みに抵触するような光景が目に入るとき、他の誰もがその光景をスルーしたとしても、ある人は、そのとき忘れかけていた傷がまだ痛むことを思いだすのだ。
そして、その想い出と現在の状況とがからみあって、さまざまな思いが生まれ、そこから別の人との関係に何かが起こったりする。
そうした人々の心模様が、風景の描写のようだ、と感じる。
心の地図を描いていくような物語なのだ。


どこにも悪意はない。悪意はないのに、事件は起こるし、何年も何年も苦しみ続けたりもするのだ。
人びとの口数は少なく、痛みも、寄り添う思いも、ほとんど、心にしまい込まれたまま。しまいこまれたものたちを私は愛おしむ。
伝わろうと、伝わらなかろうが、そこにあること、これからもあり続けることを、そうして墓場まで持っていくのだろう人びとを私は愛おしむ。
一つの恋を通して、見せられるのは、そういうこと。


子供の時代は終わる。いや、自ら終わらせ、そのとき、痛みをこらえつつ、古い衣を脱ぎ捨てる。
その姿は美しいと思う。今までよりもずっとずっと美しいと思う。
この生活の地のほか、世界のどこも知らず、根をおろし、ひたすらに生活する人間たちの、身からあふれるような強さと柔かさとを、抱きしめたい。


「自分の心のどこかに、ひりひりする場所がある」という言葉は美しい。でも、ひりひりする場所は、その言葉のなかでは、血を流してはいない。
それでも、甘美なうずきとなって留まるのだろうか。それもよし、かもしれない。


そういう人たちのひりひりが、あちこちに見える。地図のようだ。
人びとの心の奥深くの疼きのありかを遠く近く俯瞰しているような気持ちになる。
それでもなお、人びとの、様々な理由で今もなお血を流す場所も、時間とともに、あるいは、人との寄り添い合いや離れによって、いつか、地図上の小さな点となるように、と願いをこめる。