『深呼吸の必要』 長田弘

深呼吸の必要

深呼吸の必要


9章から成る散文詩『あのときかもしれない』と、24編の詩集『おおきな木』から、『深呼吸の必要』はできている。


『あのときかもしれない』
きみはいつおとなになったのか、と、詩人は問いかける。「きみ」は詩人自身だ。
詩人がみせてくれた九つのその瞬間から、わたし自身のいろいろな瞬間を重ねて思いだす。
たくさんの場面がみえる。苦い、思いだしたくないものも含めて、それは私自身の宝物だ、きっと。
その「子ども」を手放してよかったと思ったり、かけがえのないものをなくしたと思ったり、でも、あともどりできない。
あともどりできないけれど、きっと今の自分が「大人」の仕上がりであるはずがない、と思いたい。
不完全で不器用で、中途半端な大人が、今のわたし。
まだまだ、「おとなになる」瞬間はつぎからつぎへと続いているような気がする。



『おおきな木』24編は、詩の中を散歩しているような気持で読んでいた。
長田弘さんの言葉のあいだを、情景から情景を、眺める。ときどき座って、ときどき居眠りもする。


大きな木の下には何もないし(『おおきな木』)、原っぱにも何もない(『原っぱ』)
何もないところにしかないもの、ほかのどこにもないものがあるのだ。気がつかなければ、きっとずっと知らないままだったはずのもの。
大きな木も、原っぱも、言葉に似ているような気がする。
みえないけれど見えるもの。確かな存在。
詩人の「言葉」を読んでいたら、そう思った。
「言葉」を味わうことは、大きな木の下にいるみたい。原っぱに寝ころんでいるみたいだ。


暗がりで自転車をとめて待つこと(『友人』)、八百屋の「猫、忌中」の張り紙(『三毛猫』)などが、好きだ。
「日曜日の公園の午後には、永遠なんてものよりもずっと永く思える一瞬がある」(『公園』)
当たり前の生活の、何でもない時間のすきまに、宝物が輝いている。
まろやかに輝くものばかりではなくて、ときには刃のような鋭いものもある。
探せる目を持ちたい。見逃さない目を持ちたい。


「どこかへ何かをしにゆくことはできても、歩くことをたのしむために歩くこと。それがなかなかにできない」(『散歩』)
わたしは、この本のなかを散歩したかったのだけれど、散歩、だったかな。よい散歩だったと思う。



あちらこちらで立ち止まらせてくれた言葉たち。振り向かせてくれた言葉たち。
でも、ここに書きうつすのはなんだかもったいないような気がするし、そう思うのは、ちゃんと自分のなかでこなれていない、ということかな、とも思う。
「この世をいたずらに好ましいものとしたり、醜いものとしたりしないこと」(『梅堯臣』)、
「この世に希望をもつためには、世界は好ましいとかんがえるひつようはないのだ」(『ピーターソン夫人』)
との言葉を思い出しながら、「この世」を「言葉」に置き換えて、読み返すたびに言葉が自分の中で深まり、「希望」に近づいていくことを待とう、と思う。


あとがきの文章が好きだ。「本は伝言版。言葉は一人から一人への伝言」
ゆっくり読む伝言もあっていいよね。この「伝言版」を手に取るまでに時間がかかったから、伝言を読むのもゆっくりがいい、と思う。