『こころ朗らなれ、誰もみな』 アーネスト・ヘミングウェイ

こころ朗らなれ、誰もみな (柴田元幸翻訳叢書)

こころ朗らなれ、誰もみな (柴田元幸翻訳叢書)


19の短編を続けて読みながら、いかれた人間に次々出会ったような気がした。(直接・間接的に、からんでくるのは残酷で容赦のない戦争の影)
危なっかしくて、何かが起こりそうで、(もしかしたらこのあと起こるのかもしれないけれど)結局何事もなく終わる。
そして、ハミダシ者の悲しさが心に残る。悲しさは可笑しさであり、もうちょっとで美しさに通じるような気がする。
本当は苦しい。一人の人間の苦しみ(それも人によってもたらされた苦しみ)が(人にとっての)可笑しさや悲しさになり、美しさにつながっていくのは、すごく残酷で皮肉な話だ。
壊れた人より、なんでもない人のほうが恐いのかもしれない。なんでもない人が壊れていく過程もまた怖い・・・
救いようのない人への共感だろうか、憐れみだろうか、畏れのようにも思える。
どこにも書かれていない一瞬を探そうとする自分、その一瞬に美しさを見ようとする自分に気がついて、より一層物語が苦くなる。


作者自身の分身である、というニック・アダムスを主人公にした作品群が印象に残る。
ことに最後の二編『心臓の二つある大きな川 第一部・第二部』と『最後の原野』が。


『心臓が二つある大きな川』では、ニックただ一人でキャンプし、鱒を釣る。
深い森と渓谷が四方から押し寄せてくるような、圧倒的な静けさを感じ、息を潜める。
音も動きもない世界で、ゆっくりと動く人間。寝て起きて、食べるためにだけ働き、食べて、また寝る。その営みが不思議なもののように思える。
森も渓谷ももちろん生きている。植物も動物も、釣られて屠られる魚たちも。でも、それらの生と、ニックの生(外から持ち込まれた生)はまるっきり別物のように感じるのだ。
完璧な絵の中に、いるべきではないものが混ざったような、でもそれは嫌な感じではなくて、そこに置かれたもののなかから別の何かが生まれるのを待っているような。
この世界は居心地がいい。
しかし、ずっとこのままでいられるはずがないから、この世界のあちこちに、目に見えない緊迫した糸のようなものを私は感じてしまう。


『最後の原野』は未完の作。
『心臓が二つある大きな川』に感じた緊迫した糸は、ここでははっきり見える。張り巡らされた糸は次第に密になり、主人公ニック(と妹)に迫ってくるようだ。
はっきり見えるからこそ、ニックと妹トレリスの束の間の時間を大切に読みたいと思う。
互いに深く思い合う兄妹の逃避行は、危なっかしくて、不安と恐ろしさが迫ってくるようなのに、ままごとじみた可愛らしさが漂い、愛おしい。
この時をこのまま封印して取っておきたい、と思うほどに美しい。
朗読するための本が三冊も逃亡のための最小限必要な荷物の中に入っているのが、ほほえましくもある。私にも読んで聞かせてよ『嵐が丘』を。