『想い出のエドワード・トマス―最後の4年間』 エリナー・ファージョン

想い出のエドワード・トマス―最後の4年間

想い出のエドワード・トマス―最後の4年間


今までその名前さえ知らなかった詩人エドワード・トマスの名前を『明け方のホルン』(感想)で知った。
エリナー・ファージョンやアーサー・ランサムと親交があったこと、そして、ファージョンによる彼の評伝があることを知って、興味を持った。
『明け方のホルン』を読んだときには、第一次大戦で戦死した詩人というほか、ほとんど印象に残らなかった。


ファージョンのこの本は、彼との出会いから始め、ことに彼が亡くなる前四年間を、彼がファージョンに宛てて書いた手紙を中心にして、つづる。
評伝であると同時に、ファージョンその人と彼女を巡る人びとの遅めの青春記のようでもあり、当時の文人たちの暮らしを伺うことができた。
パーティ、ハイキング、ナップザックを背負って歩く歩く、歩く。草地の鬼ごっこ(三十過ぎの大人たちの遊びである)、ふざけ合い。
互いの家や別荘を訪問し、滞在し、家族ぐるみの付き合いを深めていく様子。
特殊な環境で育ったため、非常にはにかみ屋であったというファージョンが、意外に大胆な行動力の持ち主であったことなどに驚いたり、(一部の人たちを除いては)大人よりも子どものほうがもしかしたら付き合いやすかったのかな、と思うエピソードなどに微笑んだり。
ユーモラスなエピソードにくすくす笑わされたり、小鳥たちの歌を描写する文章の美しさにほおっとなったり・・・


エドワード・トマスを介してファージョンが出会った類まれな友人たちのさまざまなエピソードも興味深い。
ことに、老ジミー・ガスリーの生き方に惹かれた。(作家であり編集者であり、出版者であり)

>七十歳をすぎても、自分の暗い出発からいままでの道のりをかくのごとくまっすぐに見つめることのできる人間には、独り暮らし云々の心配は無用のことだろう。自分の人生を充分に自分らしく生きるための孤独というものもまたあっていいのだ。


ファージョンとエドワードの深い友情・・・というよりも、ファージョンは、はっきりとうちあけている。彼女は彼を深く愛していたこと。
彼はそれを承知し、彼女の気持ちを大切にしながらも、友人、という以上の親愛を示さなかったこと。
ファージョンという人の不思議さとそれゆえの魅力を、エドワードの妻ヘレンの存在(というより、ヘレンにとってのファージョンの存在?)によって知る。
ファージョンのエドワードへの気持ちを知り、その気持ちをヘレンは受け入れていた。そのうえで、二人の女性はずっと大切な友人であり続けた。
ヘレンはファージョンを少女のような人、と思っていた。二人の間に嫉妬ややっかみは存在しなかった・・・
そんな不思議な友情も、ことファージョンが相手ならば、あるような気がする。
たとえば、ヘレンのファージョンへの気持ちは、愛する自分の夫を心から愛しているかわいい姪っ子を見るような慈しみに近いのではないかな・・・
あるいは、ファージョンという人は少女というよりもむしろ人間以外の別の存在(たとえば妖精のような)でありえたのではないかな・・・


第一次大戦下。
愛国心」に熱狂する同国人たちのなかで、エドワード・トマスは、長い間悩み苦しみ続け、ついに軍服を着ることを決意するのだ。

>・・・その主な理由というのは、自分が祖国のために何もしないままでいることがどうしても自分で許せないという思いが強かったからだろう。


>その決心をしたことで彼はようやく落ち着いた気分になれたのだと思う。


>彼が、自分で自分を苦しめているところから脱却したのだ。ただそれだけの理由で、私はよかったと思ったのだった。

やるせないというよりも、怒りと恐怖が喉の奥から登ってくるような気がするのだ。
このような決心をせざるを得ないところまで人を追い詰めていった時代に、社会に。
そして、その苦しみを身近でつぶさに見守る人に、その決心を友の心の平安だけのために「よかった」と思わせる時代、社会に。
まだ30代、夢半ば。三人の子ども(一番下の子はまだ幼児)のおとうさん。
こういう人に、このような選択をさせるまでに悩み苦しませた。
祖国のためと信じ、将来と夢と、家族への責任とささやかな平安とを犠牲にする決心をさせた。国をあげて。
祖国のため? 戦争の大嘘と醜悪さについては同時代の他の詩人たちが喝破しているとおりだ(『明け方のホルン』)


エドワード・トマスの手紙は、ときに不自然なほど陽気、ときに抑うつ的だ。
彼は戦場で詩を書き続けていたし、それが出版されること、そのためにファ−ジョンが手助けすることを喜んでいた。
そして、何よりも家族のことを思っていた。自分がいなくなったあとの家族の暮らしのことを心配し続けていた。

エドワードの生涯は三十九年間だった。そのあいだ彼の感性はいつも新鮮だったし、自分の目に映るものを愛した。彼は私が知る誰よりも、周りにあるものに目を見開き、彼の目は朝な夕な、実にたくさんのものを捉えた。移ろってゆく季節も、そして一日のうちの微妙な天候の変化も、彼の目は見逃すことはなかった。それゆえに彼とともに自然のなかに分け入っていくことは、素晴らしいことだった。そこで交わされる言葉も、そしてまた沈黙さえも。