『カトリーヌとパパ』 パトリック・モディアノ

カトリーヌとパパ

カトリーヌとパパ


>ここニューヨークで、私は数年間バレエ団で踊りました。ほどなく、ママとふたりでバレエ教室をひらき、ママが引退してからは、私がその教室をひきつぎました。そうしていま、娘といっしょに教えています。
これが、カトリーヌの近況。
カトリーヌは、子どもの頃、数年間、パパと二人でパリ10区で暮らした。下が倉庫になっているアパート。今から30年ほどまえ。いったいどうして、アメリカに渡ったママと「ほんとは」すぐに一緒に暮らさなかったのか。
パパは、「ほんとは」どういう仕事をしていたのか。
パパの共同経営者のカストラドさんは「ほんとは」どういう人だったのか。(カトリーヌが信じたパパの話のとおりの人ではなかったと思う)
あの写真に半分だけ写っていた女の人は「ほんとは」どういう人なのか。
・・・何もかもわからないことだらけ。あれこれ推測することはできるけれど。そして、推測に推測を重ねれば、パパの胡散臭さがふわふわと立ち上ってくるような気がする。


カトリーヌもパパもふだんは眼鏡をかけているのだ。
カトリーヌはときどき眼鏡を外す。

>めがねをはずすと、まわりのすべてがぼやけてにじみ、しだいに音が消えていきます。世界はなめらかになって、ほおにふれる大きな枕のように心地よく、ふわふわしたうぶ毛のようになるのです。
そうして、わたしも、眼鏡をはずして、カトリーヌとパパの世界を眺めるのだ。
二人で秤の上に乗ってじっとして、止まった時間を静かに感じること。
ひげそり用のブラシについたシェイビングローションを持ったパパと追いかけっこをする朝。
バレエ教室の行き帰りの道。食堂で共同経営者にみつからないようにしながら二人だけで食べるお昼ごはん。


少し秘密めいた二人きりの時間のきらめきが、ひときわかけがえがなく思えるのは、パパだけが(もしかしたらママも)知っている何やらの胡散臭さのせいだ。
秘密めいたパパの静けさのまわりで、カトリーヌが踊っている。くるくるとそれはかろやかに。
書かれていない場面にも、わたしはカトリーヌの軽やかなステップを感じる。この本はカトリーヌの踊りが満ちている。
聞こえないピアノの音楽、月明かり、そういうものが似合う躍りだと思うのだ。
たとえ激しいステップでも、静かで、ふわりと軽い。


だけど、物語に書かれていないことまでの事実にカトリーヌは本当は気がついていたんじゃないかな、とも思うのだ。
だって、彼女は自分の意志でめがねをつけたりはずしたりしていたのだから。
でも、そのうえで、やっぱり思う。事実が、めがねのレンズごしのものであるなら、それは事実であっても本当のことではないような気がする。
めがね越しの世界と、めがねを外した世界と、どちらが本当のことだったのだろうか。


いやいや、詮索はやめておかなければ。
だって、これは過ぎてしまった想い出。このまま大切に取っておきたい世界だから。
物語のすべてが、少し紗がかかったようなぼやけた色に見える。その世界は、少し悲し気に甘く、懐かしい。