『遠い部屋、遠い奇跡』 ダニヤール・ムイーヌッディーン

遠い部屋、遠い奇跡 (エクス・リブリス)

遠い部屋、遠い奇跡 (エクス・リブリス)


パキスタンの大地主ハールーニー家を中心に、一家に関わる人びとの物語が8つ。
当主K・K・ハールーニー、子ども、妻、親戚、友人、使用人たち・・・
一つの「家」の名前を中心に据えたせいで、その世界は、わりと排他的で、狭い世界に限定されているように思う。
富めるものと貧するものの物語ともいえるのではないだろうか。
共に生活において大きく関わりながら、決して情緒的な往来はない。物語にもくっきりと壁があり、互いが交互に行き来することはないのだ。


はっきりとした階級差がものを言う社会ではあるが、逆転劇もざらにあって、名家がいつまで名家であるわけでもない。
宝石を身につけて運転手付きの車に乗った奥方が、ある日、一文無しになって町に放り出される。
愛情までも、装飾品のように着脱可能で、いらないとなったら、クシャッと踏みにじって、あとは忘れてしまえる旦那方。
無実の罪を着せられた貧乏人は、自分の罪を晴らすことはできない。警官に払う金がないのだから。
主人の目をごまかしてかすめとったいくばくかの金子をちびちびと貯めて、ひとかたの人物になりあがる使用人。
あっという間の運否天賦に「地獄の沙汰も金次第」という言葉がじわっと浮かび上がる。


といっても、決して殺伐とした物語ではないのだ・・・
散文的な日々の中に、かすかな香りや灯りが、さりげなく散らばる。
一瞬、思いがけない美しいものに出会って、はっと息を呑む。
それは、あっというまに消え去ってしまうのだけれど、かけがえのない情景として、後々まで心に残る。


夜の水辺にひざまづいてじっと水面を見つめている若い娘をじっと見ている彼と、見られている彼女の、止まったような静かな時間。


言葉の遅い義娘が始めて発した「マー」という言葉を脇に横になりながら聞いていること、見守って居る日ざかり。


もうすぐ訪れる最後の日を前にしながら、フランスの美しい田舎を旅する恋人たち。一刻一刻を大切に胸に刻み込むような丁寧な描写。


一番印象的なのは、最後の短編『甘やかされた男』である。
嵌められたのかもしれないし、それに、主人が彼に目をかけたのはただ気まぐれな暇つぶしにすぎなかったのかもしれない。
それでも、彼には幸せだと思う時間があった。一生のうちのごくごくわずか。
彼のささやかな一生のうちの、さらに、ささやかなごくわずかな幸せな時間が、胸に沁み入るような美しさになり、心に迫ってくる。


しかし、それもこれも、奪われるのだ。失われて二度と戻ってこないのだ。どこにも繋がることもないのだ。
あまりに美しい夢。あまりに幸福な夢。あまりに儚い夢。
あっさりと消え去り、残酷で皮肉な現実(そして、それはずっと続く)に引き戻されてしまう。
ちらっと見せて、あとはただ奪うだけであるならば、なんと残酷な夢だろう。そのために、無味乾燥な人生は、よりいっそう絶望的に思えるのだから。
あまりに惨い運命の嫌がらせのようにさえ思える。


だから? それでも?
わたしはそういう一瞬の夢に寄り添いたいと思う。拾い集めたいと思う。
それを拾うのは残酷であるけれど、やはり美しい一枚の絵なのだから。どこかにしまっておきたい美しい絵なのだから。
一時の涼しい風に、わたしは吹かれた・・・。それは見えなくても確かにあった・・・。


舞台は、私にはあまりに遠い国パキスタン
でも、心ゆすられるものたちは、国にはあまり関係ない(そう思えば、あまりに近い国でもある)。
表紙の、か細く美しくゆれるいくつものキャンドルの灯りが、彼らの夢のようだ。わたしたちだれもの夢のようだ。
どこの国のどの時代にも通じる、ささやかな灯りが切ないくらいに美しく、無残に踏みにじられる思い出が辛かった。