『屋根屋』 村田喜代子

屋根屋

屋根屋


始まりは屋根の雨漏りだった。
屋根屋が屋根の上で作業するカタリカタリという音を聴きながら、主婦みのりは、屋根のことを考える。
雨漏りする屋根、しない屋根。日本の屋根、世界の屋根。屋根というものが象徴する意味合いまで。
そうして、彼女はいながらにして、屋根から屋根をめぐる旅に出るのだ。寝入った時の「夢」のなかで。屋根屋の導きで。


好きな夢を好きなように見られたらいいな。
行きたいところに、行きたい姿で、行きたい方法で、行けたらいいな。
みのりたちの夢の中の旅の軽やかさ、自由さにあこがれずにいられるだろうか。(表紙のシャガールの絵の、なんとこの作品にぴったりなことだろう)
圧巻は、パリからシャルトルの大聖堂まで80キロの飛行だ。
俯瞰する世界の拡がり。
(黒鳥の翼になった腕が受ける風の抵抗の)気持ちよさと、紙一重の、(血がにじんだような黒鳥の目の)不気味さ。


夢の自由さは、ネットに似ているような気がする。「紙一重」なのだ。
夜ごとの夢旅行のめくるめくような楽しさに我を忘れることなどできない。
きらめく色彩のその後ろに終わりのない闇が控えているような、不安をずっとひきずっている。
ままならぬ現実世界、色あせた現実世界よりも、ずっと鮮やかな色のなかで実感する生きがいに出会ったら、自分自身にとって、どちらがより現実なのだろうか、と考えもするだろう。
それが恐い。
ずっとこの夢の続きを見ていられたら。もうずっとここで暮らすのはどうだろう。ひやりとする。もしも醒めずにいたら、どうなるのだろう・・・現実を生きるこのからだは。
それでも、醒めなくてもいいと思うほどに未練のない現実しかない人がいる、ということに胸ふさがれる思いがする。この先も単調につづく、喜びも悲しみもない一生・・・


夫婦として暮らしながら、彼は「世界で一番私のことを知らない」人、とみのりは言う。
「結婚したその日から、私たちは向き合っていた顔をクルリと反転して外に向け、周囲の誰よりも遠くなった」という。
みのりの夫は「世界で一番私のことを知らない」人かもしれないが、みのりもまた、相手のことを知ろうとしなかった人なのではないか。
四十代、五十代、馴れ合った、冷めた夫婦などめずらしくもないだろう。
でも、みのりは、帰ってきた。夫と、それから(すでに親などいらなくなりつつある)息子のいる家庭へ。
なぜ・・・
外に向けていたつもりの顔は、実は、ほんのごくななめ内側を向いていたのではないか。たぶん、自分だけではなく相手も。
目を外に向けつつ、相手の気配もうかがう。相手が見ているものを相手と同じように大切に思えなくても、相手が大切にしているものをおぼえておけたらいい。
願いだけれど・・・


漠と広がる空は、そのまま夢のようだ。
思えば、屋根は夢からこの身を守るためのものでもあるかもしれない。
住処に屋根を葺くことで、この身を現実につなぎとめる。
屋根屋が屋根の上で作業するカタリカタリという音を聴きながら、主婦みのりは、賽の河原を連想していた。
一種不気味に感じながら、そこに「癒し」を感じていたことを懐かしく思う。