『アラスカの小さな家族 ―バラードクリークのボー』 カークパトリック・ヒル

アラスカの小さな家族 バラードクリークのボー (文学の扉)

アラスカの小さな家族 バラードクリークのボー (文学の扉)


五歳のボーには、かあさんはいないけれど、とうさんが二人いる。それから、後には弟も。
変わった家族かもしれないが、ボーほどにあたたかい見守りのうちにのびのび育った子どもがいるだろうか。
二人のとうさんだけではない。
大人たちみんなが、集落の子どもたち(たった十五人)を分け隔てなく見守り、育てているのだ。


アラスカ、バラードクリークという鉱山集落でボーは育つ。金鉱堀たちが集まって作ったにわか集落だ。
この町に集まってきた金鉱堀りたちは、さまざまな理由で故郷を離れたものたち。たいていは金鉱から金鉱へ(数年で掘りつくしたあとで)流れていく人たちなのだ。
生まれた国も人種も違う、ここに流れ着いた事情もみんな違う。
(ボーのふたりの父さんたちだって、一人はスウェーデン人で、もう一人は、南部出身の黒人だ。そして、弟は…)
でも、そんなことにはこだわらない。それぞれの昔ばなしは、おはなしとしては、変化に富んで(?)おもしろいけれど、日々の暮らしにはどうでもいいことなのだ。
もとからこの地に暮らすエスキモーたちの文化と、金鉱堀たちの持ち込んだ文化(?)が混ざり合う。
屈託のない開かれた関係がまぶしい。素直にその温かい関係に打たれる。


アラスカの四季の美しさと自然の大きさ(脅威)に目を見張る。
金鉱堀の仕事の手順、そして集落の様子なども詳しく書かれていて、おもしろい。
時には恐ろしい思いもし、悲しいことも起こるけれど、身のまわりのものすべてが恵み。体験することすべてが宝。
広い大地をころころと駆け回るボーたち子どもが可愛くて仕方がない。


その一方で、このごたまぜ共同体の開かれた温かい輪が素敵すぎて、「なぜ」と思ったりもする。
共同体のそれぞれにとって、それぞれの流れの一時的な通過地点にすぎないからなのだろうか、と思う。
ほんの束の間の共同体だからこそのバランス、明るさなのかもしれない。


また、ずうっとここに暮し、独特の文化を伝え、子どもたちを育ててきたエスキモーたちは、本当はこのにわか集落をどうとらえていたのだろうか。
受け入れの広いエスキモーのかあさんたちは、金鉱堀の子どものボーをわが子と分け隔てすることなく迎えるのだけれど。
・・・でもそれは、いま、この物語とは別のお話。


金鉱堀は男所帯。ボーのまわりにいるのは、ほとんどが荒くれ男たちである。
ちょいと見ると特殊な環境だと思う。子どもにはどうかと思うような環境に思える。
けれども、物語を読めば読むほどに、ここが、子どもにとって、なんとまっとうな世界であるか、と羨ましくさえなってしまう。
それを望むことが遠い今、この物語は理想郷のような光を放つ。読み終えるのが寂しくて、ほーっと息をついている。