『リンドグレーンと少女サラ――秘密の往復書簡』 アストリッド・リンドグレーン/サラ・シュワルト

リンドグレーンと少女サラ――秘密の往復書簡

リンドグレーンと少女サラ――秘密の往復書簡


超多忙で、世界中から数えきれないほどのファンレターを受けとるリンドグレーンにとって、12歳の少女サラの手紙の何が、彼女の心の琴線に触れたのだろう。
サラ十代のころのたくさんの手紙、成人してからは少しずつ落ち着いた距離をとりながらリンドグレーンが亡くなるまで、年齢差51歳の友情は続いた。


リンドグレーンはサラに宛て、「わたしの、かわいいサラ」「わたしのちっちゃな友だち」「かわいい金色のおしろいちゃん」と書き出す。
その一文一文は、若い友への愛情に満ちている。
憧れの作家、というよりも、十代のころに、こんなにも自分のことを心配してくれる年上の(極めて年上の)尊敬できる友人を得られたサラが羨ましい、と思う。


サラの十代のころの手紙は一文一文が血を流しているような痛々しさ、激しさだ。
彼女の境遇は(どこまでもわかるわけではないにしても)とてもつらいものであった。そして、それを受け止める彼女自身の感受性が鋭敏であったために、より深く傷つかずにはいられなかったのだ。
サラの苛立ちに、自分の青春時代を少しだけ重ねることもできる。苦い気持ちで思いだすこともある。
そして、もう少し緩やかに物事を見られたら、もうちょっとだけ楽になったかもしれないのに・・・と、若いサラのことを思ったりするのだ。
でも、そうしたら、それはサラではなかっただろう。感受性が鋭いことは悪いことではない。
彼女の手紙はおもしろかった。その感性の豊かさは、もっとも傷ついた時の文章にさえ、はっとするほどの輝きを放っているのだ。
サラの手紙を読んでいると、その奔放な自由さに目が眩む。その感性がとらえた言葉たちに魅せられる。
その手紙たちは、まるで一つの完成した(野性味あふれた)文学のようで、リンドグレーンの真摯で美しい手紙たちの光をはるかに凌いでいるようにさえ思えるのだ。
リンドグレーンは、再三にわたり、サラに「書いてください」「書き続けてください」「書いたものをどんなものでも見せて」と伝えている。


リンドグレーンがサラと手紙のやりとりをした理由も、なんとなく分かるような気がする。
幼い12歳の書いた手紙に無意識に散りばめられたきらめきを、リンドグレーンは敏感にキャッチした。
そこに籠った痛みに、自分自身の若い日の痛みを見たかもしれない。
51歳の歳の差を超えて、そして、一度も直接会ったことも、言葉も交わしたこともない二人が、深い友情に結ばれていく。
リンドグレーンの手紙は、間違いなく若い日のサラを助けた。でも、同じくらい確かにリンドグレーン自身もサラに助けられていた。
二つの豊かで寂しい心が深い部分で、理解し呼び合っているようだ。