『予兆の島』 ロレンス・ダレル


コルフ島といって思いだすのは、ジェラルド・ダレルの『鳥とけものと家族たち』に始まる三部作。大好きな本。
この本で、ロレンス・ダレルの名前を知った。ジェラルド・ダレルの兄として。そして(実は有名だった)『アレクサンドリア四重奏』がいつか読んでみたい本になった。
そのロレンス・ダレルにもコルフ島について書いた本があるんだよ、と教えてもらって(ありがとうございました)、踊る心でこの本を手に取ったのでした。


今は五月。田んぼに水が入った途端に蛙たちが鳴き始めた。
夜、開け放った窓から聞こえてくる蛙の大合唱を聴きながら、『予兆の島』のページを開く。
なんという気持ちのよさだろう。ずっと五月が続けばいいのに。そして、ずっとこの本をこんな風に読んでいられたらいいのに。
そう思った。


コルキュラ島(コルフ島の古名だそうです)の地理、歴史、神話、芸術、産業、風習、そして、隣人たちの姿、友人たちとの語らいなどをロレンス・ダレルは記録していく。
時には詩的に、時には滑稽に。そして、辛辣に。
文章は、透明水彩で描いた絵画のように、すっきりと美しい。
私は、自然の情景をスケッチ風に描写したくだりが好きだ。一文一文がコルフ島の風のひと吹きみたいで、それを大切に吸い込む。
コルフ島独自の栽培方法により、独特の樹形になったオリーブの木立。闇に漕ぎ出した漁船から薄切りの月がのぼるのを見ること。季節が変わったことに気がつく瞬間。・・・
近隣の人々のことを滑稽に(いくぶん上から目線で、でも愛情込めて?)語るくだりも好きだ。ことに朴訥としたアナスタシウスの親父さんとホメロス(!)ついて語るくだりは、なんて楽しい。
情景に身を委ね、言葉の波にゆすられるような気持ちで、ただ、この本を読んでいることが嬉しい、そんな読書である。


ジェラルド・ダレルの『鳥とけものと家族たち』のコルフ島と、ロレンス・ダレルの『予兆の島』のコルキュラ島をどうしても比べてしまう。
二人が兄弟で、ともに同じ時の同じ場所の思い出を描いた二つの本だから。
どちらの本も、別々に、忘れがたい魅力を持っている。
たとえば・・・
ジェラルドは、(当時10歳たったわけだから)両手を広げて島の風物にも人びとの中にも飛び込んでいき、転げまわるようにして、その空気のなかに溶けてしまっているような感じ。
読んでいる私は、体全体で心地よくコルフ島を味わった。
ロレンスは、ジェラルドのようにあっさりと溶け込んではいない。ちょっと高いところから、島全体を(風物も人も、歴史も文化も)俯瞰するように見つめているように感じるのだけれど。
ひととの交わりについても、わりと醒めた文章で、ちょっとシニカルに描写しているように感じる。
(彼は当時すでに大人であったし、文学者だった。)
二人の本は、別の立場・別の方角から光をあてて、深い思いいれのもとに、この島のたたずまいを描写している。
ジェラルドとロレンスと、ダレル兄弟二人の本を読めてよかった、と思う。


『鳥とけものと家族たち』の懐かしいセオドロス(セオドア)・ステファニデスやスピロに、『予兆の島』でも出会えたことがうれしかった。
しかし、『予兆の島』には、家族のことについては書かれていない。ただロレンスの最初の妻であったというNだけが、彼の傍らにいる。Nだけが彼の家族であるかのような印象を受ける。
一方、『鳥とけものと家族たち』では、賑やかな家族描写のなかに、ロレンスの妻は最初から最後まで登場することはない。そのため、私はずっとロレンスは独身者だと思っていた。
二つの本は、ともに振り返りの本、思い出の本である。
それぞれ、思い出のなかのもっとも輝かしいものだけを大切に切り抜いたのだろう。それぞれの方法で。
わたしは彼らの切り抜き帳を見せてもらっている気持ちなのだ。
それぞれにとって、それがどんなに大切なものであるか、その思いの深さに打たれながら、もっともっと、もっと見せてよと、せがんでいる。


喜びの世界は、儚い。戦争が追いかけてくる。
美しい絵がばらばらに引き裂かれたような、取り返しのつかなさをかみしめている。