『地下室のパンサー』 アモス・オズ

地下室のパンサー

地下室のパンサー


1947年、イギリス統治時代、建国直前のイスラエル
夜間外出禁止令、時々聞こえてくる遠い銃声。地下組織運動のユダヤ人たち。イギリス軍による突然の家宅捜索。
ナチによりほとんどの血縁者を殺された多くの人びと。
命からがらこの地に辿りつきながら、自殺に向かうしかなかった隣人。


そのような世界で、プロフィは、今12歳。
英軍の車をパンクさせようとしたり、スパイ活動をしたり、彼は友人と三人、小さな地下活動を組織している。
大人たちの重たい過去・現在・未来を鏡にして生まれたこの集まりは、そこそこのスリルや仲間意識、英雄気分を楽しむ、ほとんど罪のない遊びであっただろう。
その一方で、自分たちはいったい何ものなのだろう、なぜいつの時代も迫害されなければならないのだろう、という疑問はいつも感じている、感じざるを得なかった。


スパイするつもりで近づいたイギリス人の軍曹を、プロフィは友人として愛してしまった。
それを仲間たちに知られてしまった。
敵を愛することは「裏切り」なのだろうか。
純粋で淡淡とした美しいはずのものを捻じ曲げて封じ込ませずにいられない。
一言では言い尽くせない憎しみが、恨みが、苦しみが、そしてやり場のない悲しみが、それを「裏切り」と呼ぶ。
「裏切り」とはなんなのだろう。誰が何に対して裏切るというのだろう。
ある裏切りが、別のものへの誠実さであることもあるのに。
または別の時代であったなら。


ユダヤ人たちが心から望む建国の日は間近。
イギリス人は撤退するだろう。
だけど、その先に、思い通りには決してならないだろうという不穏な未来が見え始めている。
理想が違うものに変貌していく未来を予感させつつ、今、一つの時代は否応なしにおわろうとしている。
それは、主人公プロフィの子ども時代の終焉と重なる。


子ども同士のいざこざは、どこの世界でも変わらない。
背を向ける友人たちを振り向かせたい、彼らにたいしたものだと感心してもらいたい。切なる願いは、わたしにとっても、遠い子ども時代の酸っぱくて苦い思い出につながる。
親に対する不満や疑問、そして、同情。また異性へのあこがれなど。12歳は12歳。どこの国の、どんな環境で育ってもやっぱり同じ12歳なのだと思う。
12歳は(プロフィも、そして書かれていない彼の友人も)急速に子どもから大人に変わろうとしている時。
しかし、ちがう。それだけではない。
どのような形で大人になるのか・・・子どもたちを巡る世界の動きが、彼らの中に大きく流れ込み、彼らの人格に絡まっていく。
周囲のぴりぴりした空気、家庭の中の会話、決して見てはいけないあれこれ、聞きかじったこと、見てしまったことが、ぐるぐると巡りながら、彼を大人に押し上げる養分になっていく。
丁寧にすくい取られるように描かれる、12歳の少年の気持ちの揺れに、自分の12歳を重ねつつ、重ね切らない部分の薄暗がりの拡がりに圧倒されてしまう。
その薄暗がり。彼らからみたら、こちらにもやはり薄暗がりがあるはずだ。
12歳のそれぞれの薄暗がりを通って大人になったこと、それでも、同じ12歳同士を過ごして大人になったのだ、と振り返ることが、今の私にはとても大切に思える。