『彼の名はヤン』 イリーナ・コルシュノフ

彼の名はヤン

彼の名はヤン


グードルン・バウゼヴァング作の短編集『そこに僕らは居合わせた』(感想)を今、思いだしている。
それは、ナチス支配下のドイツ、第二次大戦下のドイツに暮らす、名もなき人びとのひとりひとりを取り出した20の短い物語集だった。


そして、イリーナ・コルシュノフの『彼の名はヤン』
時代も登場する人びとも『そこに僕らは居合わせた』にかぶさる。普通のドイツ人があの時代をどう生きたか、ということを、物語は伝える。
みじめさと苦さがのど元にせりあがってくるようだ。
これは、自責の物語だ。深い内省の物語でもある。(こういう物語が生まれる国の人びとの豊かさに圧倒される思いだ。)
同じ時代に「ふつうの」日本人もまた、似た経験をしたことだろう。
それなのに、こういう物語のような過去の振り返りかた、向き合い方を、後の世に生きるわたしたちは、どのくらいしてきただろうか、とみじめな気持ちで考えている。


わたしたちは、過去を悔いた、過ちを犯さない、と何度も何度も繰り返し唱えてきた。
でも、もしかしたら、その言葉は少しずれていたかもしれない。
わたしたちの犯した罪をもっと大きな人類という集団の罪に置き換えて、罪悪感を薄めてしまっていたのかもしれない。
わたしたち? 
ここで、「わたしたち」という言葉をつかう私自身が本当は問題なのだ。
「わたしたち」とは、実態のない架空の集団だ。それなのに、その「わたしたち」に背中を預けて、何も考えることをしないでいたのだ。
「わたしたち」という便利で無責任な言葉に逃れ、自分の責任を認識することから遠ざかろうとしていた。
「ヤン以前」のレギーネによく似た私が見える。
だから、いとも簡単に同じことを繰り返すのだろう。
おろおろし、ふらふらしている。


物語は、戦時である。
差別、密告、爆撃、徴兵、戦死・・・ぴりぴりとした緊張感と恐怖。
(やりきれないことはいろいろあるけれど、
死地に赴く青年たちを前にして、少女に求められたことが心に残っている。自らすすんでそうすることを望むように仕向けられた、ということが。
あれほどに平らな心の人でさえも・・・。
大きな痛みの前に、忘れられそうな、やりきれない愚かしさ、悲しさ、苦しさ、そして得体の知れない気持ち悪さは、見えにくい場所で、もっともっと数限りなくあるにちがいない)


明日にも戦争は終わるだろう、という日々。
明るい早春の日。
美しい田園風景のなかで、レギーネがみつめているのは、希望ではない。
はからずも、充分すぎるくらいに内省する時間を持つことができたレギーネ
彼女はもう知っている。彼女の目の前にあるのが容赦のない未来なのだということを。
――「足跡を残す」
「ヤン以前」「ヤン以後」という言葉を使った彼女、今の彼女はさらにそれ以後――「ヤン以後の以後」をみつめているのだ。
彼女はその未来を覚悟をもって歩み始めようとしている。彼女はただおびえているのではない。
そうして、彼女が残した足跡を受け止めるのは、ほかでもない、この本を手にした私自身だ。