『ほとんど記憶のない女』 リディア・デイヴィス

ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)

ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)


200ページほどに詰まった51の短編。どれもテイストが違うとはいえ、一冊の本として統一感を感じるのは、どれもがあまりにへんてこだからだ。
物語と呼ぶのはちょっと・・・いやいや、やっぱりどれも物語。


たとえば、この本のなかで一番短い作品は『ピクニック』
わずか二行しかない作品だけれど、確かにこれ、ピクニックの物語。
たった二行だけれど、読んでいるうちに、そのピクニックがどういうものか浮かび上がってくる、そこから喚起される感情がある、二行目の最後の一文字を読み終えたあとには、ある種の余韻が残る。


それから、『俳優』
ふんふんふんと軽やかに、「だからなんなのよ」というくらいの突き放した気持ちで読・・・んでいたつもりだった。最後に、ときっとする。たとえば、いきなりこちらに向けられた鏡の存在に気づいたような。
意地が悪いと思ったりするけれど、それをこちらもしっかりと楽しんでいるのだ。


自分とはかけ離れたところから始まって、かけ離れたまま終わってしまうのに、何がどうと説明できないんだけれど、心地よさを感じ、これ、なんだろうなあ、といぶかしく思うのは『くりかえす』。


『話の中心』では、物語のタイトルと物語の最後の一行がしっかり掛け合いになっているのを面白がり、真ん中を安心してすっぽり忘れてしまう、というのは読者としては暴挙なのかな。作者の仕掛けた罠にかかっただけなのかな。


『家族』は、読んでいると、頭がおかしくなってくる。
センテンスごとに通し番号が振ってあるからではない。(ここまで読んでくれば、そういう形の奇妙さにはいちいち驚かなくなっている。)
この途方もない人びとの団体は、どういう関係なのか。
わずか2ページほどの作品であるはずなのに、何度も前の行や前の前の行を見て、あるいは最初に戻って確認しても、この絡まった糸みたいな状態は解消されないのだ。
最終的にからまったままくるくるとまるめてポケットにしまっちゃった気分。


そして、ときどき、とても好きと思わせてくれる印象的な言葉があちこちにちりばめられている。
たとえば『ノックリー氏』のなかの、
「彼は小さい足で走って逃げ出した。上着の襟がめくれ、白髪まじりの短い髪に雨粒が点々と光っていた」
との文章から、思い浮かぶ情景が、なんとも愛おしくて、
『家族』の始まりの、
「川沿いの公園、夕暮れ前、傾きかけた太陽、緑の芝の上・・・」
なんて、穏やかに静止した絵が、このあとぐちゃぐちゃの糸玉になる運命が快感・・・。


次々、51篇。わかろうという努力は放棄した。何か奥に隠された意味があるのでは、と考えることも放棄した。
そうして、ふわふわとした感覚だけになって、物語の波にのったり、おぼれてアップアップしたりすることを楽しんでいた。
「なんだこりゃ」とぼそっと呟いてみたりもするけれど、「なんだこりゃ」のニュアンスはどれもみんな違うし、どれもみんな違う余韻を引いて去っていく。
冷たい笑を誘うような作品もあったけれど、むしろ心細くなってしまう感じが、ぞっとするよりもずっとよかった。