『希望の牧場』 森絵都/吉田尚令

人間のために生きて人間のために死ぬ運命を人間によって定められた牛たちが、その運命を人間によって狂わされる。
爆発した原発施設から半径20キロ圏内の「立ち入り禁止区域」に、牧場はあった。


>エサ食って、クソたれて、エサ食って、クソたれて――
なんど見たって、それだけだ。
でも、それ見てるときが、いちばん、ほっとする。
・・・そういう絵本の文章を読む私もほっとする。申し訳なくも、ほっとしてしまう。ほっとするのは、生活が断ち切られることなく、続いているからだ。


希望の牧場とは誰が名付けたか、希望なんてどこにあるのだ、明日どうなるかもわからないのに。
周りの一切合財が変わり果てたなかで、春夏秋冬、朝昼晩、変わらぬ生活を続ける。もくもくと続ける。
当たり前すぎて、平凡すぎて、意味なんか考える必要のなかったこと(生活するってそういうものよね)を、今は考え、必死で当たり前の生活を維持していく。
それは、決して当たり前なんかじゃない。
(私が思いだしているのは、大好きな絵本、バーバラ・クーニーの『にぐるまひいて』感想だ。)
当たり前であること、平凡であることは、こんなにも尊くて重いのだ、と、360頭の牛たちと「希望の牧場・ふくしま」代表の吉沢さんの姿から、今更ながらに噛みしめるのです。
以前も以後も変わりなく(ほんとは変わったけれど、あえて変わりなく)続いていく牧場の一日一日の歩み。


当たり前が当たり前じゃなくなった時代に、希望が生まれてくるとしたら、それでも「当たり前」をもくもくと続けていこうとする人がいるところなんじゃないだろうか。
ここでも、どこでも。

>オレは牛飼いだから、エサをやる。
きめたんだ。おまえたちとここにいる。
意味があっても、なくてもな。