『北斎と応為(上下)』 キャサリン・ゴヴィエ

北斎と応為 上

北斎と応為 上

北斎と応為 下

北斎と応為 下


最初は、なかなか物語に入りこむことができなかった。
時代は確かに江戸である。江戸時代の末。寛政の改革頃から開国まで。
リズミカルに物語は動く。跳ねる。祭りのように。登場人物たちは舞い踊っている。
なめらかに流れる江戸の庶民の言葉。いきいきとした風俗。勢いのある文章に、カナダの作家によって書かれた物語である事を忘れる。(翻訳が素晴らしい)
だからよけいに(私だって江戸の風俗なんて知らないくせに)ほんの一瞬、あれこれはちょっとおかしい?という部分に出会うと、それがごつごつとしたひっかかりになり、あとあとまで気になってしまうのだ。
それが、なかなか入っていくことができなかった理由。
私は頭が固い。柔軟になれない自分が悲しかった。こんな理由で物語を楽しめないことはつまらない、と思ったけれど、どうしようもなかった。


それが、いつからだろう。いつのまにか夢中になって読んでいた。


これはいったいどこにある、いつの時代だ。
変な江戸だよ、変な日本だよ、と思った事どもが、坩堝の中で回転し混ざり合い、めくるめく快感が生まれている。
ジョーン・エイキンが『ウィロビーチェースのおおかみ』に、架空のイギリス史をするりすべりこませたように、ここには、もう一つの江戸がある。江戸史がある。わたしは不思議なパラレル江戸に飛んだ。
この知っていそうで知らない世界はなんと溌剌としているのだろう。なんと魅力的なのだろう。
不自由さを嘆き、憤り、迫害に負け、諦め、くじけ・・・でも何度でも、地の底から明るいものが湧き上がってくる。
物語のなかで、主人公が、吉原について、このように語る箇所がある。

>吉原は幕府に抗っているように見えるが、実はその一部。そんな、歪さがよかった。威勢はいいが、どこかで諦めきっている。どぎつい商魂、祭り、半狂乱の呼び込み、練り歩く艶やかな花魁――紙一重の美しさと残酷さ、そんな吉原のすべてが好きだった。
それは、この物語の印象を語っているよう。それが今のわたしには好ましい。時間をかけて物語を読み終えた今、物語を懐かしいと感じさせる。


わたしは浮世絵など、何も知らなかった。応為という名も実は初めて知ったのだ。
絵師・応為(お栄)は、葛飾北斎の共作者、といわれる、北斎の末娘である。
しかし、その名は偉大な父の名の影に隠れ、実態はほとんど知られていないらしい。
それでものこされた絵は語るのだ。聞くべき耳を持った人間には、その声が聞こえ、物語を浮かび上がらせる。
ほとんど幻のような彼女を、作者は、この物語のなかに蘇らせた。
なんという力強さだろう。しかし、強いかと思えば思いがけないほどに柔らかく華奢。大胆にして繊細。
この庶民にはあまりに窮屈な社会、男性優位の社会に女として生まれながら、したたかに、生きぬこうとする。男でもなく女でも無く。いやいや、とことん女として。舌を巻く。

>家の者は私が男みたいだと文句を言うが、そうではなくて、私は海の向こうの世界の女たちに似ていたのではないだろうか。


お栄。そして彼女に並び立つ友、志乃。
身分も境遇も、考え方も違う二人の友の根っこにある価値観、誇り、そして誰の何をどのように愛するかに、まるで双子のような二人、と思う。
伸びやかで、堂々とした女たち。
不自由な時代に、心の自由さを謳いあげる言葉に快哉を叫びたくなる。
(一方でそのようにしてしか解き放たれることのできなかった女たちの人生がやりきれなくもある。)


お栄の目から見た、北斎の奇行に見える数々の場面が、我が身の奥から聞こえる切ないような声に思えてくる。
お栄が求めたのは父だったのか、自分自身だったのか。
さらにいえば、北斎という人間は(あくまでもこの物語のなかにおいて)本当にいたのだろうか、とさえ思ってしまう。
すべてはお栄が見た幻、お栄の憧れが結晶し、北斎という形に像を結んだのではないか、とさえ。
北斎はとらえどころがない。まるで煙のようだ。一方でお栄の存在感が私の心に、確かなものとしてずっしりと根をおろす。

>私もまた父のように、痛快な機転を利かせて生き抜いてきたんだ。父の振る舞い、あの横暴で無礼で自己中心的な振る舞いを、私は楽しんでいたのだ。
それにもちろん、北斎は別格だった。ほかの者なんかとは比べものにならなかった。あれだけ偉大なものの影になるってことは、陽の光のなかにいるのと同じようなものだった。
いいや、別格なのはお栄・応為だ。応為こそ最初から光を放つ陽であった。彼女の光のなかにみんないたんだ。