『ポケットに物語を入れて』 角田光代

ポケットに物語を入れて

ポケットに物語を入れて


読書案内(?)というか、書物の周辺のあれこれを綴った本は、時々読みたくなる。
新しい本との出会いを求めて、というよりは、すでに読んだことのある本について、どのように書かれているか興味がある。
著者の卓見に唸り、作品世界の俄かな広がりに驚き、時々は私も同じように感じていた!と共感してドキドキしたり、
そういうことが嬉しい。
そうして、まだ読んでいない書名に出会ったときに「ああ、この著者さんが勧めてくれる本だったら読んでみたい」と思えたらうれしい。
だから、目次で取り上げられている書名の一覧を見て、(推定)40パーセント以上は読んだことがあるぞ、と感じられるなら「あたり♪」と心弾む。
し、か、し。
『ポケットに物語を入れて』・・・とりあげられているのは、見事なほど、未読の本ばかり。私が読んだことがある本は、ほんのほんのほんのわずかしかない・・・
の、だけれど。
前書きにあたる『あなたのポケットの、あなただけの物語』というエッセイにすっと引き寄せられた。

>・・・とくに読み手として、彼の目線を追って、彼が見ているであろう景色に目を凝らす時、一つの正解などにはおさまらないほどの、時に言葉にならないほどの、深い世界や余韻が広がる。それが、読むことの豊穣だ。
豊穣、という言葉に、うっとりとしてしまった。
そうして、数十もの物語、エッセイ、ドキュメンタリーについての角田光代さんの言葉を読みながら、豊穣をかみしめる。
それらは、ほとんど読んだことのない本について語っているものばかりだけれど、その本を知らなくても、読むことを愛する者として共感できる、あるいは敬意を持って受け止められる、言葉だった。たくさんの言葉だった。
角田光代さんの豊穣(の一部)を見せてもらって、それがとても好きだ、と思った。
取り上げられた作品に対して興味を持つ・持たないを置いておき、ただ著者の感動の体験をなぞることが快い、と思える。それもまた、こういう、読書案内(といっていいのかな、)を読む喜びなのだ、と思ったのだった。


*気になるフレーズ。覚えとして、ほんの一部抜書きします。
●この小説が、あるいはこの作家が今でも読まれ続けているのは、そうして、いつ読んでも古くさく感じられないのは、そのあたりに理由があると私は思う。懸命に私たちが忘れようとしていることをいともたやすく思いださせてくれるから。思いださせ、私たちが小説にではなく、小説が私たちに共鳴してくれるから。(太宰治『斜陽』)
●理解できないものも、難解なものも、その理解できなさを、難解さをたのしめたのだ。だからなんでも読みたかった。そうして私にとって読むことは、「所有する」ことでもあった。(本が私を呼んでいる)
●読後感などいったいどれほどの意味があろうと、開高健の作品に触れるたび思う。小説は人の気持ちをあたたかくするためだけのものでもなく、自慰のためだけの道具でもない。もっと肉薄し、おびやかし、揺さぶり、私たちの生をのみこんだり取りこんだり、するものではないか。(開高健『戦場野博物誌 開高健短編集』)
●美しいものやことで満たされているわけではないこの世界を、小説という手法で切り取るとき、ぜったいに肯定してやる。そのままのかたちを受け入れてやる。作者はそう覚悟をきめていいるのではないか。その能動的な覚悟は、私には大いなる謀反のように思えたりする。(森絵都『アーモンド入りチョコレートのワルツ』)
●いつのまにか読み手の私は、三人の母親たちそれぞれの内面に取りこまれている。(中略)…気持ち、わかるというよりもっと生々しく、味わわされる。だからずっと、読んでいるあいだじゅうこわかった。自分のものではない感情に突き動かされなければならないから。(金原ひとみマザーズ
●・・・私はやっぱりこの場所に行きたいと思う。今すぐチケットを買いにいきそうになる。けれどいかないのは、ここに描かれているのはモロッコでありながらモロッコではないと、私はすでに知っているからなんだと思う。大竹さんが描いたのは、私たちの知らない世界だ。そこへいくチケットはどこにも売っていない。この本を開くしか、そこへ足を踏み入れることはできないのだ。(大竹伸朗『カスバの男 モロッコの旅日記』)