『黒ヶ丘の上で』 ブルース・チャトウィン

黒ヶ丘の上で

黒ヶ丘の上で


痛みを共有し、互いを自分の体の半分のように感じている一卵性双生児。
彼らが生まれたのはウェールズイングランド両方にまたがる家。
二つなりのものが「ひとつ」に混じり合い、または本来ひとつであるものが二つに分かれてしまっているもの・・・
そういうことが物語の根っこになっていたように、思っている。無意識にそういうことを心に置いて読んでいたように思う。


一卵性双生児のルイスとベンジャミンを中心に据えて、彼らの父母、祖父母にまでさかのぼり、一家の歴史を辿る。
一家から腕を広げるようにして、近隣の人々、彼らと関わりのあった人びとの人生が、飾る言葉もなく描かれる。
土と獣の匂いがする人びと、地にへばりつくようにして、生きてきた人びとだ。
町場の法や常識の眼鏡をかけて眺めたら、ぎょっとし、思わず顔をしかめてしまうようなこともまかり通る。
しかし、そこに暮らす人びとには、自らが生き、隣人を生かすための、言葉にならない「やくそく」があり、「バランス」があったのだ。
高みから見れば、ただこの土地(人びとの暮らす土地)は、あるがまま、どこまでも美しい。


葛藤があった。
ここに住む人びとの生活が、狭量な正義に破壊されたり踏みにじられたりするのを見るのは辛い。
『崩れゆく絆』感想をふと思いだした。


ルイスとベンジャミンは、人生のほとんどを生まれた家で、二人一緒に過ごした。
彼らの人生には旅(実際の移動)と呼べるものはなかった。
彼らの前に現れる光景は春夏秋冬、朝昼晩、見慣れたものばかりだったはず。
けれども、これはやっぱり旅の物語だったのではないか。
父祖たちから双子、その先へ続く縦の繋がりと、彼らと関わってきた大勢の人たちの人生の横の繋がり(断ち切られたり、ねじれ、まがり、再生されることも含めて)が、どれも旅であり、その軌跡が地図を作っているようだ。
物語は地図になり、地図は物語になる。


懸命に働き、報われたり報われなかったり、大切な物(有形無形ともに)を蓄え失い、
なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか、と打ちのめされたり、
時代が移り変わり、価値観も移り変わっていくのを見つめながら、
彼らの人生にどんな手出しもできないまま、ただ懐かしい、といくつもの顔を思いだしている。
人びとの営みが、静かに豊かに広がり続ける。きっとこのあとも。刻々姿を変えながら。そういう地図。