『死者たちの七日間』 余華

死者たちの七日間

死者たちの七日間


物語の始まりは、
「濃霧が立ち込める中、私は家を出て、空虚で混沌とした町を歩いて行った。」
しかし、この「私」こと楊飛は、死人である。
彼が歩いているのは、葬祭場に向かうためである。自分を火葬してもらおうとしている。
葬祭場に着いてみれば、そこが死人になってもなお、生前の身分がものを言う場所であることを知る。
楊飛には身寄りもなく、弔ってくれる人もなく、骨壺も墓もない。
そのために、火葬してもらうことができないらしいのだ。
そして七日間。
弔われず、火葬されない体をひきづって楊飛は、街から街をさまよう。
さまようのは、彼の生前のゆかりの場所。そして、生前交流のあった死者たちと次々に出あう。


街のなかにこんなにたくさんの(弔われない)死者がいたのか。まるで生前の縁故との同窓会のような賑わいじゃないか。
そして、一日ごとに、出会う人たちとの会話と楊飛自身の回想から、彼の人生をさかのぼっていく、楊飛とともに私も。
同時に、彼が出会った人たちの人生を覗くことにもなっている。
彼の人生も、彼とともに生きた人びとの人生も、読めば読むほどに、滑稽に思え、同時に美しいと思えた。
あの人もこの人も、ささやかでちっぽけなのに、なんと重たくて豊かなんだろう。
ふっと懐しい気持ちになる、あの人、この人。


街の治安は、冷酷に、金の多寡で線引きされて保たれているようだ。
また、いい加減な土台・崩れかけた骨組をごまかして、上っ面だけ平らに鞣すことに熱心な社会、と思う。
その割を食うのは貧乏人、正直者。
楊飛をはじめとした、ささやかな人生をささやかに生きて、死んでいった死者たちだ。傲慢でいい加減な行政・権力の犠牲になり、命さえも失った人たち。
それなのに、死後まで差別され、昇天(?)もままならない。
ブラックな笑いを誘う皮肉だろうか。
「現代中国社会の諸問題を反映した小説」であるそうだ。


しかし、心に残るのは、そういう社会のありようではない。心に残るのは、柔軟で逞しい人びとの群像だ。
彼らは死んでしまってもなお逞しいのだ。
その人生はあまりにも過酷、その死はあまりにも悲しすぎる。
でも、死人となってさまよい、しまいには骸骨になってしまった人たちから、「怨み」のエネルギーはほとんど感じられなかった。
彼らは悲しんでいる。あきらめているのか。でも同時に、朗らかだと感じる。悲しみに浸れば浸るほどに明るい高揚感がわきあがてくる不思議。
悲しみとあきらめのさなかに、揺らぐことのない光が、わたしには見える。
彼らは自分の死を悲しんでいるのではない。彼らは、自分のために泣くことはない。だれか別の人を悲しんでいるのだ。
だれかを思う心、そして共感が、大きなエネルギーになって、彼らの生と死とを輝かせているように感じる。

>私たちは篝火を囲んですわった。果てしない沈黙の中に多くの言葉が隠れている。自分の卑小な人生のことを語っているのだ。誰もがあちらの世界で、思いだしたくない苦難を体験し、誰もが独りぼっちだ。私たちは自分を悼むために集まった。緑色の篝火を囲んで座った時点で、私たちはもう独りぼっちではない。

大切な物はなんだろう。
貧しいなりに、不要なものを捨て去る。彼らに、まだ不要なものがあったのだろうか。それは物質的なものではなかったが。
(ああ、だって、命さえも失くしてしまったんだもの。いやいや、命を失くした先に約束されていると思っていた天まで失くしているんだっけ)
そのようにして、それでも、ふるい落とすことのできない大切な一点を見つめる。
見つめようとするとき、例の「現代社会の諸問題」が唐突によみがえってくる。あまりにバカバカしい巨大な笑い話になって。