『木に持ちあげられた家』 テッド・クーザー/ジョン・クラッセン

木に持ちあげられた家 (Switch library)

木に持ちあげられた家 (Switch library)


この絵本を読みながら、思いだしていたのがバージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』
しっかりがんじょうにたてられたおうち。うつくしいおうち。
けれども、住む人がいなくなり、周囲の環境もどんどん変化し、おうちの姿も変わっていきます。


『木に持ちあげられた家』は、もう一つの『ちいさいおうち』の物語のようです。
バートンの『ちいさいおうち』は昔おうちに住んでいた人のまごのまごの手によって持ちあげられ、再び人の暮らしを見守るおうちに立ちかえる。
けれども、『木に持ちあげられた家』の家を持ちあげたのは人ではなかった・・・
『ちいさいおうち』は、この家に暮らした人たちの幸福なホームであった。人が住まなくなっても、その思い出をずっと抱きつづけていられた。
けれども『木に持ちあげられた家』は、最初から寂しかった。
人が出ていく前から、忘れられていたような家。この家は、ホームになることができなかったのではないか。


私は、モンゴメリの『赤毛のアン』の中の一節を思いだします。「家は、誕生と結婚と死によって清められる」という言葉。
家がホームになっていくことはそのような清めを何度も経験することによるのではないだろうか。
『木に持ちあげられた家』のあの家は、一度も清められたことがなかったのかもしれない。
たとえどのくらい長い年月、そこにたちつづけたとしても、その家に住む人がいたとしても、その家は寂しい、住人も寂しい。
せめて、ここで家族として暮らしていた人たちが、この家を離れた後に、いつかどこかで温かいホームを築くことができたらいいのだけれど。


「木々は枝が作る指で、家を鳥の巣のように包み込んだ。」
わたしには、この枝々が、目に見えない存在の、大きな慈悲の手のように思える。
そうして、葉擦れの音に守られ、ゆすられながら、今度こそ小鳥や栗鼠のホームになるかもしれない。そうだったらいいと思う。