『さようなら、オレンジ』 岩城けい

さようなら、オレンジ (単行本)

さようなら、オレンジ (単行本)


オーストラリアのある町で、二人の女性が出会う。
戦火のアフリカから逃れてきたサリマ。
日本から研究者(?)の夫とともにやってきたサユリ。
サリマを主人公にした物語と、サユリから恩師ジョーンズ先生に宛てた手紙とが、交互に置かれて、一つの物語・一つの情景が、異なった二人の目線で描かれている。

行って来るほどに立場も生き方も抱えている問題も異なっている二人。共通しているのはともに移民であること。
つまり母語がこの国の言葉・英語ではない、ということ。
いろいろなことがあった。彼女たちのどうしようもない孤独と痛みをかみしめながら、言葉のことを考えている。


二人が出会ったの移民のための英会話学校だった。
とはいえ、読み書きどころか聞く・話すもままならないサリマと、英語で学術論文さえ書くサユリとでは、英語を学ぶことの意味は随分違うのだけれど。
彼女たちの居心地の悪さのおおもとのところで、言葉は大きく関わっているようなのだ。


ことにサリマ。
成人してからいきなり母語を奪われ、言葉の通じない世界で生きていかなければならなくなる、ということ。私は本当に理解できているのだろうか。
彼女が英語を学ぼうとしたことは、大きな始めの一歩だったのだ。そして、英語でのあの作文に繋がる。あの作文は印象的だった。
彼女自身の足場をかため、自身を保ち、外へ向かって踏み出していくきっかけになっていったことに、言葉の持つ途方もない力を知り、眩暈がするようだ。
彼女は、英語を身につけることで、埋もれかけた自分を救いだした。自分で自分を勝ち取ったのだ。
英語は彼女にとって第二の言語。
第二の言語で語り。書くことで、第二の土地で生きていく自分を大きく肯定しているようだ。
そこから歩み始めようとする眩しさ。


しかしサユリは? 
一見英語を使いこなし日常生活に何一つ困らないようにみえる彼女にとって、事態は複雑かもしれない。
どこまでも英語と向かい合いながら、そしてどこまでも深めようと戦いながら、彼女の母語はやはり日本語なのだ。
これもまた、日本語の枠の中から一歩も足を踏み出したことのない私は、ほとんど考えもしなかったことだけれど(考える必要さえあるとは思えなかったのだ)
彼女は、今「書けない」ということの源を探さなければならない。
そして、物語のなかの彼女とつきあいながら、言葉とは何ものなのかということをわたしもまた考え始めています。


(最後に二人の女性の物語が重なる。
この物語はそもそも誰の物語であったか、なんのために書かれた物語だったかを知った。)


「言葉」ってなんだろう。
獲得することで、深く学ぶことで、そして捨てることで(捨てられることで)、さらにまた振り返ることで、取り返すことで、
その都度、違った方角から「言葉」を振り返る。


わたしは、アゴタ・クリストフの自伝『文盲』を思いだしていた。
母語を失うということが、その人のアイデンティティをゆるがす。
ことに「書く」ということ。
「その」言語で「書く」ということは生きる、ということに直結していたのだ。
「書く」ことを習得するということは、自分を生かすための命がけの戦いのようである。