『雪の中の軍曹』 マリオ・リゴーニ・ステルン

雪の中の軍曹

雪の中の軍曹

第二次世界大戦時、著者はイタリア軍の一部隊の軍曹だった。
ドイツ軍のレニングラードでの大敗を境にして、ドイツ・イタリア両軍はロシア戦線から撤退していく。
1942年秋から1943年にかけて。厳しい冬のさなか。雪深いロシア、ニコラエフカ。
著者たちの部隊が撤退を始めた時、すでに彼らはロシア軍に包囲されていたのだ。


ロシア、厳寒の真冬をただひたすらに体を引きずって歩き続ける。
食べ物、眠る時間、すべてが足りなすぎる。疲れ果てた体が背負う重たい銃器は何の役にたつのか。
傷ついた体の部位は腐り、凍傷に苦しむ。狂気がちらつく。
時折の銃撃戦がある。そしてそのたびに一人二人と斃れ去る味方は、名もなきだれかではなかった。


夜、宿を与えてくれた村々の農家の人びとの口に出すことのない苦しみと怖れとを想像している。
ある農家の戸口付近で死んでいた男、地下壕に隠れていた娘や子供たち。
そして、屠られる家畜は大切に育てた彼らの財産。銃弾が飛び、手りゅう弾が炸裂するのは彼らの農地なのだから。


悲惨な敗走の記録だ。どこにも美しいものなどないはずだ。
いや、美しいものなどないはずの世界はやっぱり美しいのだ。
「雪は踏み荒らされていず、地平線は紫色で、木々は天に向かってそびえていた(中略)この紫色の空の下、この白樺の木々の下に戦争などありえなかった」
たどりつけば、やっぱり戦争の暗雲から逃れられる場所などないのだ、と確認するだけかもしれないのだけれど。
笑い合い抱き合った仲間たち、より強い煙草を調達する方法を考えることや、手の中の二粒のドロップ。
「いつ故郷へ帰れますか」の問いかけ。故郷で待っている人びとのこと。


そして、敵。ロシア兵は、作者たちにとってどんな存在であったか。
互いに撃ち合い、殺し合いながら、憎しみはまるで感じない。「鬼畜」とか言ったりはしないのだ。
むしろ、同じ苦労を分け合う同士のような親近感、同情のようなものさえ感じる。
作者自身、もはやここで死ぬのかと覚悟するほどの銃弾を浴びせかけられながらも、撃ち手に対する憎しみはない。
それでも殺し合えることが私には不思議。
個人的な感情はいっさい関係ない、それが戦争、ということなのかな? なんともやりきれないのだけれど。
まるでエアポケットのような不思議な空間のような場所で、敵味方が(個人として)向き合った静かな瞬間もあった。
ぎりぎりの状態で、研ぎ澄まされた感性が、言葉に表せない形で、素早く交流したような感じ。素早く、でも深く。そしていつまでも忘れられない、やっぱり言葉以外の何かになって。


いいや、きれいごとにしてはいけない。あとから振り返れば、改めて語ることさえどうしてもできないようなたまらない出来事にいくつも遭遇しているのだから。深い雪の中で悲しく静かに語られる事ども。
ただ生き延びることができたことだけが奇跡ではないか。
それでも、思うのだ。
どうしようもない泥沼に沈みながらも、天の星を仰ぎ見ることができる人たちもいるのだろう。暗いさなかに静かにしみわたるような小さな瞬間瞬間が忘れられない。