『逃亡派』 オルガ・トカルチュク

逃亡派 (EXLIBRIS)

逃亡派 (EXLIBRIS)


ロシア正教には、こんな教義のあるセクトがあるのだそうです。
「静止を悪と考え、動きつづけることが神への信仰をあらわす」(訳者あとがきより)
逃亡派。
そして、物語、というより、数限りない断章(数十ページの長いものや、たった二行行短いものまで)が、この本のなかで一斉に足踏みをしている。歩きだす。(こういうの好きだ)
ただの本なのに、夥しい移動に満たされている。しかし、もごもごとそれは癖になりそうな(?)気味悪さです。


一言で移動と言っても・・・
例えば、地理的な移動。旅。
人体の組織を辿っていくこと。
空間(時間とか、何か)飛び越えるようなSFチックな移動。
人から人への関わりの移り変わり。
知識から知識へ。歴史や政治の流れ。思いから思いへの連想。
すべて移動だ。意識していないだけで、私自身だって、ひとときだってじっとしていることはないんじゃないか。
あらゆる場所であらゆる器官で、あらゆる方法で、私はずっと移動し続けている。そもそも生きて呼吸をしていること、呼吸は一番身近な移動だと思う。


いろいろな移動に幻惑される。
行き止まりのあるものがある。どのように進もうと、先のないもの。
どこまでも進めるもの。どこにたどり着くのかもわからないもの。
それから進みに進んでいるうちに、元の場所に帰ってきていたことに気がつくこともある。
激しく動いているのにずっと止まっているように見えるものもある。
止まることを怖れてずっと動いていることが、止まり続けていることに似ているように感じたりもする。
止まり続けながら、旅への憧れ、移動することへの憧れを抱いているとき、すでに旅をしているのかもしれないし。


でも、この本のどこにも呑気な旅なんてみつからなかったなあ。
行き詰った末の移動であったり、偏執的なものであったり、狂気に似た移動であったり、そもそもさっぱりわからない理由でその場から消え去ってみたり・・・
どの旅にも、何か払落したいような、でも落とせないような気もちの悪いものが染みついている感じ。
そんな移動が集まって、どこへ向かうのだろう。向かう場所なんてきっとない。
ただ移動していく。
何のために? もしかしたら止まることを実感したくて移動し続けているのではないだろうか。それはほかならぬ自分が存在していることを確認することでもある。
 「わたしたちは、どこへ向かっていようとも、わたしたちはあそこをめざしている。「どこにいるかは問題ではない」。どこにいようと、関係ない。わたしはここにいる。」