『山の人生』 柳田国男

山の人生 (角川ソフィア文庫)

山の人生 (角川ソフィア文庫)


現在の日本の山(森?)も変わりなく深いはずだけれど、明治・大正の山々は、いっそう暗く深く、底がしれないように思えた。
山の深さには、霊力のようなものを感じる。
人を呼び、人を迷わせる。とりこむ。
そのころの人びとは今より一層、山の霊を敏感に感じ取って生活していたように感じる。
多くの縛りはあるものの楽な里の暮らしを捨てて、山の奥に暮らす人びとのことも書かれていた。
その事情・心情を想像すれば、あまりにつらい。
(そもそも、この本は、「子殺し」からはじまるのだ・・・)


そして、山からは、いろいろな不思議が人の里へやってきた。
不思議な力を持った山の動物たち。きつねや狸・・・
異形の人びと。天狗、山姥、山人(巨人)、鬼・・・見た、というだけではなく、それなりの交流があった。
ことに大きな山人が、里の人の少しばかり(?)の食べ物と引き換えに、骨折り仕事をいとも簡単に片付ける話などゆかいだった。
神隠しや、山のものとの婚姻、山の子ども、幽界を覗いて戻った人びと、八百比丘尼のような長寿人など。
それから、狂気。
怪異は、ごく普通に里の人びとの生活に混ざりこんでいたように思う。
迷信であり、民話の礎のようでもあるけれど、時にはあまりに純粋な信と怖れとが、惨たらしい事件に繋がったりしていたのだと思うと、たまらなくなる。


これは、暗く深い山への怖れ(畏れ)から、人びとの想像力が生み出した物語なのだろうか。
物語は、消えかけた日本の歴史の一部を表しているのかもしれないのだ。
各地に残る言い伝えは、私たちの祖先と先住民族との交流の名残であったかもしれない。
また、
「(山人と里の人間たちとの)いずれも皆一旦の好意とその後の不本意なる絶縁とを伝説する地方が多いのは、あるいは何かこの方面の信仰の次々の変化を、暗示するものではないかと思う」
そして、「時代が漸く進んで全民族の宗教はいよいよ統一し、小区域の敵愾心などは意味のないものになった」ころ、嘗ては土地ごと、家門ごとに祀ってきた多くの氏神は、物語の中にしか残ることができなかったのではないか。


現在は、山もずいぶん変わった。深い山はあっても、暗い山はあるのだろうか。底が知れない、と思うことはあるのだろうか。普通に暮らす人びとの里のすぐその地続きに。
そんなふうに思う今、古い物語とともに、さらに新しい物語をも必要になっているような気がする。忘れられ失われようとしているものたちのための。
もしかしたら、静かに生まれ出ているのだろうか。
読みながら、しきりに、先日読み終えたばかりの梨木香歩の『海うそ』を重ねていました。


「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。」(「一 山に埋もれたる人生ある事」より)