『銀のうさぎ』 最上一平


この本には六つの短編がおさめられている。
どの物語も、舞台は東北。作者の生まれ育った町だという。
時代は、(東京)オリンピックが終わって、少したった頃だということが、登場人物の会話からわかる。


雪深い農村。圧倒的な自然が、しんしんと背中から押してくるよう。
子どもたちは祖父母に預けられる。父母は町に出稼ぎにいく。
父母のどちらかを喪った子どもも出てきた。
表題作『銀のうさぎ』の少女の家では、彼女のかわいがっていたうさぎを、家族がこの冬を(一時を)なんとか乗り切るために売る。
農家は、動物を家族として飼っているわけではないのだ。
それを子どもも知っている。
知っているから何も言えない。
ただ、うさぎの最期を、鳴かぬウサギの鳴き声を、そして、命が肉と毛皮に変わっていくさまをずっと目をそらさずに見ているのだ。


この本のなかの子どもたちとわたしは、ほとんど同世代。
しかし、決して豊かではなかったけれど、町のなかでぬくぬくと育った私などは想像もできないような厳しい暮らし。
ふと、無着成恭の『山びこ学級』を思いだす。


けれども、この物語の中にあるのは、生活の過酷さ、苦しみ、悲しみだけではない。
私が決して知ることのできない深い叡智のようなものが、彼らから放たれている。物語を読みながら私は照らされているような気がするのだ。


実は、わたしは最上一平さんの本はこれで二冊目。
一冊目は『ぬくい山のきつね』 
ずいぶん前に読んだのだけれど、とてもよかった、と思いながら、何がどうしてよかったのか、言葉にすることができなかった。
ところが、ある方が、この本『銀のうさぎ』について語るのを聞き、その言葉に心揺さぶられた。ああ、そういうことだったのだ、と深く頷いた。
この本のなかからたちあがってくる不思議な清々しさは、そこに由来するのだと、今はわかる・・・
そして、言葉にならないまま、この物語が大切だと思った根っこも知ることができたと思う。
今わたしはその方の言葉に導かれるような気もちで最上一平さんの本を手に取っています。


たとえば・・・
もし、正と負とを「さあ取りなさい」と目の前に差し出されたら、わたしは迷わず正のほうだけに手を差し出しただろう。
それが許されるような暮らしをしてきたのだ。
けれども、それは、きっと偏っている。足りていないのに、何が足りないのかも知らないで、足りないものを探し続けるような・・・
でも、正も負もともに当たり前に引き受ける以外にない人たちがいた・・・


この本のなかの大人たちも子どもたちも、親たちや周囲の自然のなかから引き継いできたものがある。
物語の表には、決して書かれていないが、目をこらせば、ちゃんと見えてくる。彼らの奥にあるもの・・・。
過酷で苦しい暮らしをひたすらにもくもくと暮らしていく人びと。
光も影も、眩しさも底知れぬ暗さも、何の気負いもなく身内に湛えて生きていく人たちの人生には、私などが理屈をこねくりまわしてなおたどりつけない深い豊かさがあるのだと思う。
と、こんな風に書くのも、うすっぺらくなってしまって、恥ずかしいのだけれど。
物語から、子どもたちの(私から見ればあまりに酷な)日常のむこうに、見せられるそれらは、あまりに大きくて眩しい。