『ファンタジーを読む』 河合隼雄

ファンタジーを読む (講談社プラスアルファ文庫)

ファンタジーを読む (講談社プラスアルファ文庫)


「ファンタジーというと、すぐに空想への逃避という言葉を連想し、それに低い評価を与えようとする人がいるが、ファンタジーというのは、そんなに生易しいものではない。」
「現実への挑戦を意味することさえある。」
「(同時に)ファンタジーは危険なものである。」
「ファンタジーをたましいの表れとして見るとき、ファンタジー作者からわれわれは実に豊かなメッセージを受け止められるように思う」
この本では、12のファンタジー作品が取り上げられ、一作一作丁寧に読みほどいていく。
著者が挙げた12作品は、どれも一度読んだら決して忘れることのできない名作ばかり。
よく知って居るはずのそれらの作品の、今まで気づきもしなかった意味を知る。


でも、この本は、書評本ではない。
著者は、臨床心理学者である。心理療法の現場に立ち、「たましいのありか」としてファンタジーを読もうとしているのだ。
なるほど、著者の導きで、それぞれの物語を味わえば、ファンタジーは、人の心の奥深くにある世界を表しているようだ。
ファンタジーを読むことは人の心を旅をするようなものかもしれない。
だから、この本を読むことは、読む、というよりも、ふだん顔を背けていた自分の内面にあるものに対面することのようだし、
そこからより深いところに向かう旅の入り口に今、立っているのだとも感じる。


たとえば、第10章、真実への旅。ボスコの『犬のバルボッシュ』について。
伯母と甥が、ピエルーレ村への旅のことを家族に語る場面。
二人の語りは、現実の旅とはまるで、かけ離れたものだったけれど、著者は、(現実ではないけれど)真実――「魂の現実だった」という。
真実は、目に見えるもの、耳に聞こえるものとは限らないのだと。
それがファンタジーの本質なのだと・・・。


12の作品についてそれぞれ個々に語っているけれど、あとからふりかえると、行きつ戻りつ、どの章も繋がっていると感じる。
第一章『マリアンヌの夢』について語ったなかで、
「すべての人は「二つの世界」に属しているのだが、どうしても一つの世界しか見えない人が多すぎる」という言葉がある。
その二つの世界は、↑『犬のバルボッシュ』の、現実の旅と真実の旅を思い起こさせる。
また、第六章『トムは真夜中の庭で』の、あの庭が、トムとハティにとってどういうものであったか考えるくだりに繋がる。
現実の世界に生きるわたしたちに、もう一つの世界の存在を示してくれるのが、ファンタジーなのだ、ということがすんなりと胸に落ちていく。


第三章については、『はるかな国の兄弟』の感想として、こちらに書いたけれど、これも、第11章〜13章にかけての『ゲド戦記』についての文章と照らし合わせてみると、いろいろと気がつくこともあるように思う。
影と光がひとつになること、壊れた二つの腕輪がひとつになること・・・それは生と死の問題でもあるから。


第4章カニグズバーグの『エリコの丘から』のなかで、主人公ジーンマリーは、同じファッションで同じ行動をする同級生たちを「クローン人間」と呼ぶ。
ジーンマリーの「私は私である」というアイデンティティの探索の旅は、
第12章『こわれた腕輪 ゲド戦記』のなかで、「喰らわれし者」についての考察に引き継がれる。
アルハ(テナー)が「喰らわれしもの」であることから、固有の名が食われ、名なきものになってしまう(その人固有のものが消えてしまう)ことは、現代でもよくある、というくだりが心に残る。
学生、会社員、課長、教授・・・そんな名に「食われてしまう」ことで、みんなと同じになり、個性をなくしてしまっているということ。
そういえば、どこにも属していない人までも、帰宅部とか、フリーターとかに仕分けしてしまうのも変な話だ。
何かの組織の一部になった瞬間に、人柄まで変わってしまうこともあると思うのだ。
いわゆる肩書き。それを名乗りあうことで、なんとなくほっとしたり、相手のことをわかったような気がしたり・・・そうだ、自分にも覚えがある。
そうとしらないまま、自ら「食われていた」のかもしれない。食われる前はなんだった? それがわからなかったら悲しい、恐ろしいではないか。


第13章。ル・グウィンさいはての島へ ゲド戦記』のなかで、アレンが尋ねたことについて、ゲドが答えにならない答えを与える場面では、
「実のところ、このような「あてのない旅」においては、若者が直接的な問いを発して、老人に答えてもらおうとする姿勢そのものが問題なのである」と著者。
厳しい言葉だけれど、そういえば・・・
この本は、一つ一つの作品について深く読み解きながら、決して断定的なことは言っていないじゃないか。
むしろ、読めば読むほど、ますます読者を深い迷路に連れ込むような感じがする。
読んでいて、やっと「あっ」と気がついた・・・
わたしがこの本を読もうと思ったきっかけは、ずっと気にかかっていたリンドグレーンの『はるかな国の兄弟』をどう読んだらいいのか、教えてほしかったからだ。
でも、『はるかな国の兄弟』について書かれた第3章を読んでも、やっぱりわからないままだった。
安易な答えを要求していた自分に気がついた。
旅、なのだね。『はるかな国の兄弟』の旅は、まだまだゆっくりと長く歩かなければならないのだね。


ファンタジーは、空想への逃避ではない。そのことは、先に読んだル・グウィンのエッセイ『今ファンタジーにできること』(感想)にも繰り返し書かれていたっけ。
確かに、安易に「逃げ場所」にするにはあまりに深く恐ろしい世界であるようだ。


「あとがき」のなかで、河合隼雄さんは、「ファンタジー作品は欧米のほうに傑作が多いように感じられる」と言われる。(1991年当時)
続けて、
「日本人は意識と無意識の隔壁が西洋人に比して薄いので、ファンタジーをひとつの作品として結実させるのがむずかしいのではないかなどと考えている」
と書かれている。
けれども、その後30年が過ぎて、今、日本でなければ生まれないファンタジーの傑作が(それもいろいろな分野で)次々に生まれてきているではないか。
河合隼雄さんに、生きていて、これらの本についてもう一度語ってほしかった。