『フラッシュ ―或る伝記』 ヴァージニア・ウルフ

フラッシュ―或る伝記

フラッシュ―或る伝記


19世紀の詩人エリザベス・バレット・ブラウニングの伝記であるけれど、夫のロバート・ブラウニングはともかく、私は、彼女のことは何も知らなかった。
ユニークな伝記である。
たとえば、暗闇の中でぼんやりとある人物を見ているような感じ。
最初はさっぱり見えなかったものが、闇に目が慣れるにしたがって、ぼんやりと輪郭が見えてくるような感じ。
でも、暗闇だから、見えるといっても限度がある。どこまでもぼんやりしたまま、はっきり見えないものは見えないままなのだ。
何しろ、この伝記は、犬の目を通して描かれているのだから。
エリザベスの愛犬フラッシュの目を通して。


犬の目で見えるもの(興味を持つもの)には限界がある。
その行動の意味とか理由とか、彼女をとりまく人びとの姿とか・・・こちらとしては、本当は知りたいことが山ほどあるのに、知らずに終わったことがたくさんある。
たとえば、結婚後の彼女の生活・・・間違いなく彼女のそばに夫のブラウニング氏がいるのだけれど、ほとんどの時間、私には、彼が見えない。
彼女が彼とどのように暮らしていたのか、それから外部の人びととの交際なども、見せてはもらえない。
フラッシュがそういうことに興味を持たないなら仕方がないのだ。
かわりに、突然、めくるめくように場面が変わる。これはなんだろう、と驚く。その場面までに、ずいぶんいろいろな人びとが関わり、時間をかけて用意してきたのだろう、と推測し、場面と場面をつなげていく。
そして、そうしながら、エリザベスという謎の女性の断片と断片をはぎ合わせていく感じ。


フラッシュという犬の存在はおもしろい。
彼の目で見た女主人の伝記であるけれど、もしかしたらね、フラッシュとエリザベスは内側が繋がったただ一つの生き物のようにも見えないこともないのだ。
たとえば、病弱な娘だったエリザベスのソファに侍っての長い長い一日、幾つもの季節。
忍耐強くやり過ごしてきたフラッシュの閉塞感と憂鬱と忍耐の長い時間は、そのままエリザベスのものではなかったのか。
互いに依存し合うその関係もまた。
一転、暗いロンドンの町から、陽光あふれるイタリアに移ってからの、野山をのびのびとかけまわるフラッシュの解放感や取り戻しつつある野性味も、そのままエリザベスのものではなかったか。
フラッシュは、エリザベスという女性の姿を目に見えるように描きながら、その内面で、見えないエリザベスを描写しつづけたのではなかったか。


エリザベスの伝記、と考えるよりも、フラッシュそのものの一生に興味を持った私には、フラッシュの中にエリザベスがいる、と思うことで彼女を感じたい。
フラッシュもエリザベスも、後年は、家族の誰に対しても(愛していても)依存することなく生きた。自分自身の人生を思うように生きることができたのだろう、と思う。
だから、読んでいて、あれこれがぼんやりとしか見えないという不満は、ことに彼らにとっては、どうでもいいことであるにちがいない。