- 作者: 鎌田遵
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/01/19
- メディア: 新書
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この本を読む前に、ざっと目を通したあとがきに、まずびっくりした。
彼が、アメリカ留学中に出会ったと思われる人びとの「その後」について書かれていたのだけれど・・・
多彩な人の群れ、というよりも、そこがどんな国であろうと、そういう事情の人びととあえて関わろうとしないだろうと、私なら、思う。(中途半端には付き合えない)
なぜ、そういう人たちと知り合ったのだろう、どういう関係を結んだのだろう、いったいこの本にはどういうアメリカが描かれているのだろう、と焦ってしまう。
そして、そもそも「そういう人たち」(と、ごめんね、レッテルを貼ってた)は本当はどういう人たちなのだろうか。
巻末の著者の略歴の一部に書かれた学歴は、
カリフォルニア大学バークレー校ネイティブアメリカン学部卒業。同大学ロサンゼルス校大学院アメリカンインディアン研究科修士課程修了。同大学同校大学院都市計画研究家博士課程修了(都市計画ph.D)
そして、この本は、アメリカ留学記、ということになるわけだけれど・・・
↑この経歴だけみれば、著者はさぞや優等生で、早くから留学を念頭においてそれこそ大変な準備をしてきたことだろう、と想像してしまう。
「この成績では大学進学は無理」と担任に匙を投げられる高校時代があった、先生たちの情け(?)でやっと高校卒業できた、そういう過去があったなんて誰が思うだろうか。
そんな彼に、いったい何があったのだろうか。
17歳の時、高校が嫌で日本を「逃げ」出した。バックパッカーとなって、中国を皮切りに、アジア・ヨーロッパを歩きまわった。
高校を卒業してからアメリカに渡ったが、ここでも「逃げ」を何度も体験している。(大学での学びさえも逃げの手段であったとは)
なんだ、逃げてばかり・・・
だけれど、ほんとうに逃げたといえるだろうか。
例えて言うなら、たいらでまっすぐに続く面白みのない道、でも最短距離でゴールに続いている道をこつこつと歩くことよりも、曲がりくねった悪路を楽しむことが得意な人なのかもしれない。
そもそも、へそ曲がりな冒険者だと思う。
アメリカで絶対に住んではいけない町はエスパニョーラだ、と聞けば、さっそくそこに住むことを決めてしまったり・・・
度胸の良さ、順応性・適応性の高さに驚く。「なぜよりによってそこ?」というとんでもない環境が著者にとっての最良の学びの場に変わっていくことにさらに驚く。
思いがけなく見える景色や、出会った人たちが、彼に、自分の行く道を示し続ける。
彼が見た、体験したアメリカは、ほとんど顧みられることのないアメリカだった。
著者はジャップと呼ばれ、被差別者として理不尽な扱いを受け、せっかく入った短大を退学になりそうになったり、殺されそうになったり。
彼が憧れて編入を希望するニューメキシコ大学が、日本の高校の成績のあまりのひどさを理由に入学を拒否したかと思えば、
一方で、バークレーが「アメリカにきてからのあなたを評価した」との言葉で、合格を通知してきたりする。
どん底の生活をする人間たちに出会ったり残酷な人間たちにも出会った。
理不尽に蔑まれ、過去も未来も奪われ、食うや食わずの生活をする人間と兄弟になり、家族になった。
そして、移民、さまざまな文化を持つ先住民たちの生きざまや文化、抱える問題、そして未来に興味を持った。
彼の学びは、そのようにして始まった。そのようにして掘り下げられたのだ。
彼を一番最初に受け入れた(あのとんでもない町の、そして、思い出深い町の)短大のモットーは“Never too Late.”
学ぶのに遅すぎることはなかった。
むしろ、回り道した分、教科書の外側の体験が練りこまれて、自分の求めるものが明瞭に見えてきたし、学びへの情熱は、太く強くなったかもしれない。
彼が惹かれ、友情を結び、ともに暮らしたのは、主に白人社会からはみ出した辺境の人びとだった。
自分もまた重たい問題を抱えながら、隣人に対して両手を差し伸べることのできる人たちがいた。
「あとがき」で、著者は「ぼくがこの本で紹介したかったのは、アメリカの輝きである」という。
底辺であがく人びとを踏みつけて闊歩していく人間たちの中にある巨大な闇。その闇をみてみぬふりをするさらに大きな闇。
その闇に押しつぶされかけながら、せいいっぱいに生きようとあがく人びとの命はなぜだろう、確かに輝いてみえる。
著者が見たのは、「辺境」「どん底」から見たアメリカ。でも「辺境」はとてつもなく広い。そして思っているよりもずっと強靭だった。