『イタリアの引き出し』 内田洋子

イタリアの引き出し (FIGARO BOOKS)

イタリアの引き出し (FIGARO BOOKS)


>時事報道から離れて、歩く速度に生活が変わると、今まで知らなかった町の様子が迫ってくるのだった。置き忘れてきた景色は、ごく身の周りにあった。
そして、身近な情景こそ消えることのないニュースなのだ、と知った。
そうして、内田洋子さんが、引き出しにしまっておいた、町のあちこちで拾った場面、移り変わっていく場面のなかの一瞬一瞬を、今、とりだして、並べて見せてくれる。
一瞬の輝きを切り取ったものだから、一章一章が短くて、今まで読んできた内田洋子さんのエッセイの読み応えとはちょっと違う。
それは、たとえば、『13 おいくつですか』の最後に表れる素敵な一文、
「少しだけページを繰って、そのまま先へ進まないで打ち捨てる本のようである」というのと、よく似ていると思う。
そんなふうだから、あ、もうちょっとそこのところ詳しく聞かせて、とか、名残おしく振り返っては野暮かな、と思う。
さっそうとミラノの町を歩こう。そして、一瞬、景色の中にすっぽり包まれながら体全体で味わい、あとは振り返ることなく、歩いていってしまおう、次の景色の中へ。
そんなふうにして味わう軽やかな本と思う。


軽やかな本ではあるけれど、内田さんの場面の切り取り方はやっぱり絶妙なのだ。
切り取り方にもきっと個人差がある。同じ場所に立って同じ経験をしても、切り取り方によって全く違う光景に見えてしまうことってザラではないか。
内田洋子さんの切り取り方は心地よい。安心して身を委ねる。
『32 気を抜くセンス』で、
本の雑誌で時々紹介されるような、ファッショナブルなミラノマダムについて、「それにしても、あのマダムたちはふだんどこにいるのかしらん」と感慨深く呟かれる。
内田洋子さんのミラノには、そういう精巧な(?)ミラノマダムな風景はない。
ちっとも気取っていない。
そして、なんだろうね、たとえば、たとえば、いつ訪れても黙ってご飯を食べさせてくれる友人みたいな本なのだ。
いたたまれないくらい辛いこともあるはずだけれど、そういうときに「何はともあれご飯食べよ」と言ってくれるような本だなあ、と思うのだ。


何度も出てきたヴァレリアという高校生。この子はたくさん(何十個もの!)ブレスレットをつけているのだ。喜怒哀楽の記念なのだそうだ。
ある小学校の先生は本を選ぶ基準のひとつとして、「匂い」をあげる。「好きな本は、いい匂いがするものよ」と。
「ミラノの奥底から聞こえてくる、静かな声を集めたような店」があるのは、モンテ・ナポレオーネの裏通り。
どれもこれも、さらりと語り、振り返らなくても、まぎれもなく内田洋子さんのイタリア(主にミラノ)なのだな、と思うのだ。そうそう、これこれって。
沢山の景色のなかを通り過ぎながら、すこーし元気になって微笑む。
よい顔の人たちとすれ違いました。