『天と地の守り人 〈第三部〉新ヨゴ皇国編』 上橋菜穂子

天と地の守り人〈第3部〉新ヨゴ皇国編 (新潮文庫)

天と地の守り人〈第3部〉新ヨゴ皇国編 (新潮文庫)


第三部は、戦場だった。
無残な場面が続く。息苦しい場面の連続に顔をそむけたくなり、本を伏せた。
先が気になる、気がせく。それなのに、続けて読むことができない。
戦争、そして災厄が、本の中から手を伸ばしてこちらまでからめとろうとしているようだった。


太鼓のリズムに従って一糸乱れず進撃してくるタルシュ軍は、人のようではなく精巧な機械を見ているような不気味さ、恐ろしさだった。
しかし、短い戦闘が終わってみれば野ざらしの累々と続く死体死体死体。それは、敵味方関係なく、まぎれもなく一人ひとりがごく普通の隣人たちだった。
死に、無残に腐り、烏につつかれながら、やっと人間が人間に戻ることができる戦場の残酷さに言葉もない。
それを馬に乗って踏んでいくのだ。だれよりも柔らかい心を持った人間が、戦士として、兵士として・・・


暗く厳しい場面の連続であったから、最後にやっと訪れた平和な光景があまりに美しくて、ああ、もうちょっとこの平和のなかでゆっくりさせてよ、と思う。
まさか、そんなに今すぐ、終わり、なんて言わないでよ、と思う。
そして、バルサが苦々しく顔をしかめた民間の伝説(もう伝説になちゃったんだね)のファンタジックな描写もまた・・・理不尽に奪われ続けた民衆にとって、一つの喜びの形なのだろう。平和を寿ぐ形なのだろう。そんな風に思った。
でも、民もまたきっと成長する。開かれた帝のもと、神話は神話、神話に隠された「事実」があるはずだ、とそれぞれに考えはじめる時代がくるに違いない。
神話が、「知る」こと、「探究する」ことの入り口になる時がくるのではないだろうか。


「サグの地に、途轍もない災害をもたらした、ナユグの春の豊穣」「生の営みが死に繋がるふしぎさ」という言葉が心に残った。
重なり合った二つの世界の、これはいったいなんなのだろう、切っても切れない関係、互いに生かし合う世界、と思っていたけれど・・・
よいことがもう一つの世界にとって極めて悪いことになる、ということはいったいどういうことなのか、不思議な気もちで今も考えています。
ただ・・・
時代とともに、互いの世界が互いにあまりに見えなくなりすぎて、重なっていることさえも忘れられ、「群れの警告者」の存在も忘れられてしまったのだ、ということを意識しています。
見えなくても大切なもの、根幹が繋がるもの、でも形骸化してしまっているものが、きっと本の外の私たちの世界にもあるにちがいない・・・



長い長い旅をしてここまで来たような気がします。やっとゴールイン。よい旅でした。
名残惜しいのですが、この世界とお別れ。
このあとの『流れ行く者』は、少し時間を置いて、長い旅の余韻を楽しみつつ、少しずつ読もうと思っています。