『旅する名前 ―私のハンメは海を渡ってやってきた』 車育子(ちゃ ゆっちゃ)

旅する名前―私のハンメは海を渡ってやってきた

旅する名前―私のハンメは海を渡ってやってきた


在日。日本で生まれ、日本の文化の中で育ち、国籍は韓国だというが、韓国になど行ったこともない。ルーツはすでにわからない。もちろん朝鮮語など話せない。
また、日本は、「在日」にはどんな権利も与えなかった。選挙権もないし、国民保健もなかった。就きたい職業にさえ就けなかった。夢も自由に見られないのか。
この国に何代生まれ暮らし死んでいったとしても「外国人」に過ぎないのだ。
著者は、在日三世。
初めて韓国に旅行した彼女は、
「生地である日本にも、籍のある韓国にも依拠していけない私の現在を視た」という。


日本で「ふつうに」生きるということはどういうことなのだろう。日常に否応なしに混ぜられた「外国人」。その矛盾。理不尽さ。そして差別。
あからさまな差別の酷さに憤りつつ(憤ることができた)、それよりも読んでいてつきささってくるのは、無知による差別だった。
それは「パンがなければケーキを食べればいい」に似ている。
差別しているのだ、ということさえも気がついていない、肩を並べた庶民たちの、あまりに無邪気な差別。
それ、わたしにはない、と言いきれるのだろうか。
この本がこんなにひりひり痛い、「日本人」という名前にあぐらをかいて生きていた自分が恥ずかしい。と思う今。
辛いけれどきっと私の中にもあると思って、向き合い、迎合せず、戦っていく方法を探すしかない。


著者は、この地に暮らす軋轢に疑問を感じ、悔しさに耐え、激しく憤り、ずっと「自分とは何ものなのか」と考え続けてきた。
この本はその記録でもある。
そうして、「それでも」著者は、日本語の通名を捨てる。名前は車育子、ちゃゆっちゃ、と読む。
韓国は彼女には遠い。日本は「在日」である彼女に背を向ける。
そんななかで、ちゃ ゆっちゃ、と名乗って生きていく。
それは、国籍を超えた名前なのだ。
日本人でもなく、韓国人でもなく、在日でもなく、ひとりの尊い人間として、かけがえのない一人としてこの名を生きていく、という覚悟なのだ、と受けとった。
なんと眩しい名前だろう。