『月とかがり火』 チェーザレ・パヴェーゼ

月とかがり火

月とかがり火


その村で、孤児(私生児・ててなしご)をひきとって育てるのは食うや食わずの貧乏人。なぜなら、里親になれば孤児の養育費として月に5リラが支給されるから。
主人公は、この村で育った孤児。貧しいながらに義姉妹とわけ隔てなく育てられた。後に、養父と義姉妹が村を去ったあとは、大きな農園の作男となり、成長する。
やがて、村を出て、ジェノヴァへ、それからアメリカへと放浪し、それなりの成功をおさめた二十年後、自分が育った村に戻ってきた。数日間滞在するために。


美しい村だ。遠景としての田園風景はただひたすらに美しい。
しかし、その風景を細密に見回せば苦しみの光景の寄せ集めなのだけれど・・・
物語は、遠景と近景とを巧に織り交ぜながら、村の人びとの暮らしを映し出していく。
遥か二十年以前の村と、現在の村との間をゆらゆらと揺蕩いながら。


この村で育ったとはいえ、自分自身の出自はわからない。そして、戻ってきたとはいっても、ずっとここに暮らすつもりはない。
その微妙な主人公の立場は、読んでいるこちらも時々居心地悪くなる。
主人公の親友(?)で、口数の少ないヌート。卓抜した音楽の才能を持ちながら、この村に生きこの村に骨をうずめるつもりでいる堅実な男と比べると、帰る場所を持たない主人公の孤独がひきたつようなのだ。
一見、自由で開放的に見えるけれど・・・
故郷と言ったらこの村しかないのに、「ててなしご」である彼にはここさえ帰る場所ではないのだ。永遠に旅を続けるしかない、一人で。


彼の子供時代に知っていた人びとはみな死んでしまったか、変わってしまった。
この村ではきっと長くは生きられないのだ。
まずしい人びとも、豊かな人びとも、置かれた場所で苦しみ、憧れた女性たちもまた身を亡ぼす。
それでも、捨てられない、外に出ることはできるとしてもしたくない・・・この村を故郷と呼べる人にとっては。
ヌートはそうなのだ。
その理由は、彼を通り抜けるようにして消えていった人びとの思い出のせいだろうか。それをみんな知っているせいだろうか。
より良い生活とチャンスを求めて旅だつことはないし、未来に夢を描きもしない。でも、生活に疲れ切って、あきらめているわけでもない。
思い出のために、鎮魂のために、そこに生きる。そういうことに意味がある、と思う限られた人びとがいるのかもしれない。


タイトルの「月」も「かがり火」も、この村の因習であり、伝説であり、作り話であり、迷信。
そういうものはよそ者にとってはいかがわしい。美しいけれど、いかがわしいものだと思う。
しかし、村に生きることを選んだ時、大切にしないではいられないものなのかもしれない。
百姓を土につなぎとめるためだけに搾取する側がこしらえた作り話である。そう言いきれるか。
そうとばかりはいえないのだ、ということ。百姓は土についてはだれよりもよく知っているのだ、ということ。
迷信は土に密着して生まれたものだった。
静かに語るヌートの言葉が印象に残る。


ヌートと主人公。置かれた立場も考え方も生き方も違う二人の親友。
自分の人生を信じつつ、その生き方を手ばなしに賛美してはいない。むしろどうしようもない閉塞感があるのを知ってもいるのだ。
それでも、自分の選んだ道を歩くしかないのだろう。そして、どんなにしても振り返るべき場所はここしかないのだ。
そして、ここ、この村の風景はあまりに美しいのだ。美しすぎてやりきれないような気持ちになってしまう。どこからどこまでも。
人が首をくくっても。丘が埋められた死体を眠らせていても。多くの涙を血を、木々が養分にしているとしても。