『カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想』 内田洋子

カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想

カテリーナの旅支度 イタリア二十の追想


イタリアじゅうを飛び回り、いろいろな町の、いろいろな場所に(時には木造の古式帆船にまで)住み、たくさんの知己を得る。
階層も職業も、年齢も、めまいがするほどの幅広さ。
その行動半径や行動力だけから連想するのは、みあげるような華やかなイメージなのだけれど、内田洋子さんの、人を見る目はとても堅実で、それがとても好き。そして、うわべだけでその人を決めつけはしない。
読んでいて、ときには、こういう人とのお付き合いはいやだなあ、と正直思う人も出てくるのだけれど、一章読み終える時には、取り上げられたその人がいつの間にか好きになる。
地道に生きていく人の人生の愛おしいことよ。
恵まれた環境にありながらうつろな心を抱えた人もいる。そっと寄り添う。
不遇な人生を生きる人も、思い上がった人も、敬虔な人も、そして、絶望しきった人も・・・ああ、人はそれだけではできていないんだな、と思う。
あちこちに印象的な小さなカバンも現れる。工具箱であったり、修道院に入る人が持っていく唯一の荷であったり、明日新生活に旅だつ人がなくしてしまった自分のすべてが入ったカバンであったり・・・
少し前に読んだドヴラートフ の『かばん』を思いだし、かばんは本当に持ち主の人生観を語り出すのだなあ、と思う。
ヨーロッパ連合の外から来る人たちに浴びせる汚い言葉や、冷たい眼差しに、町のなかで遭遇することもある。
どきっとするけれど、内田洋子さんの文章に浸っているうちに、そうした偏見を持つ人の貧しさを気の毒に思い始める。広い心や深い思いに出会うチャンスを捨てるために自らめぐらした垣根のために。
鮮明な印象は、春、忘れていた鉢いっぱいの青い花。「ワタシノコトヲワスレナイデ」の物語が愛おしい。
そして、最後の章では、おしまいに、買ったばかりの絵ハガキが一枚差し出される。それ、内緒でわたしがもらったつもりでいよう。 何を書いたらいいだろう、と嬉しくなる。

>敗戦ですべてを失ったイタリアは、〈より前へ進め、さらに豊かに〉と、戦後の復興に全力を注いできた。しかし時が経つにつれ、その気構えは次第に変化していく。そして最近では、〈他者を出し抜き、もっと金持ちに〉という、利己的な拝金主義に満ちた風潮になっている。
そのために生まれる新しいみじめさ、卑屈さ。よそ事ではない。私たちの国だって同じじゃないか。もっと卑しい先までいっているかもしれない。
そのなかで、探し出されたひとこまひとこまの小さな花。
人は生きていく。懸命に生きている人たちの中に、それぞれ形が違う、その由来も違う、小さな光を放つ花が咲いているようだ。
そうした花を丁寧に丁寧に束ねたような一冊であった。