『かばん』 セルゲイ・ドナートヴィチ・ドヴラートフ

かばん

かばん


アメリカに亡命したドヴラートフが、故国ソ連を出国するときに持って出たのは、スーツケース一つだけだった。
クローゼットから久しぶりに取り出したスーツケースの中から現れたのは、フィンランド製のくつした、ダブルボタンのフォーマルスーツ、将校用ベルト、ポプリン地のシャツ・・・
作者以外の人たちにとっては、何の意味もない、古臭い、あるいは薄汚れたガラクタにすぎない。
しかし、物ひとつひとつには、物語がある。
作者の青春期の、めちゃくちゃででたらめな日々への慈しみ。
出会った人びと(これもまたとんでもないでたらめな連中だけれど)への慈しみ。
当時のソ連の体制から受けた苦痛と反感は、オブラートに包みこみ、皮肉と冷笑とともに断片的に見せられる。
だけれど、それよりもひたすらに懐かしいのは、暗がりにともる灯りのような人と人の繋がりなのだ。
スーツケースから現れた物たちは物にすぎない、でも人がいなければ生まれないもの、人を介さなければ作者の手もとになかったものである。
物は、人のぬくもりと声とをとどめる。作者の魂のありかを示す。


巻頭には、アレクサンドル・ブロークの言葉が引用される。
曰く、

>――けれども、わがロシアよ、そうであっても
おまえは私にとって一番いとしい国なのだ・・・
祖国への愛が、このでたらめでいい加減な日々と、ガラクタの間から浮かび上がってくる。
捨てざるを得なかった故郷は、いつまでも、ずっと彼の魂のありかであり続ける。


*『わが家の人びと――ドヴラートフ家年代記』(感想