『ニムオロ原野の片隅から』 高田勝

ニムオロ原野の片隅から (福音館日曜日文庫)

ニムオロ原野の片隅から (福音館日曜日文庫)


『鉄さんの大地』
昭和47年、バード・サンクチュアリを夢見て著者は、根室(ニオムロ)の果ての牧場で牧童になった。
林、草原、湿原、起伏、川、沼、砂浜、磯、海・・・
そして生き物たちの豊かな世界。
慣れない都会者が厳しい牧場の労働にいつまで耐えられるか、という周囲の期待(?)を裏切りつつ、日々は進む。
しかし、暗い早朝から夜まで休む間もない実際たいへんな仕事。休日もなし。
思いがけない事件は起こるし(大切なトラクターは沼に落ちるし、脱走した牝牛は林で仔を産んでしまったり、海には漂流者がやってくる)
買い物できるような場所は周囲ににはないし、
林や海は、季節ごとに贈り物をくれるが、喜びもつかの間、厳しい冬に備えての食糧確保を算段する。
牧場生活に遊びはない、という。


過酷な労働・・・のはずだけれど、読んでいるうちに湧いてくる喜びがあるのだ。それは、よそ者の物見遊山的なものではない。
もっと地に足のついた、深い喜びのようなものが響いてくるのだ。
著者のそばにいるのは先輩(?)牧童の鉄さんだ。
寡黙な働き者の鉄さんの存在感が、この手記の喜びの中核にある。

>(「純粋は素朴に通じ、素朴は無知に通じる」という言葉を引いて)けれども、そうではない大多数の典型を僕は鉄さんに見るのである。純粋で素朴であるけれど、鉄さんは無知ではない。時間と次元に多少食い違うことがあっても、その食い違いを鉄さん個人の責任にしてしまうわけにはいかないのだ。鉄さんは、鉄さんの世界を実にだいじにしている。無知な人間にそれはできることではない。
また、あとがきのなかで著者は鉄さんの姿を「確実で着実な歩き方」「これからもずっとそうやって歩いていく」という言葉で表現している。
ああ、それだなあ、と思う。
だからこの手記のタイトルは『鉄さんの大地』なのだ。
私の住む現代のこの地、首都にほど近い場所にいて、とどめようもなく移り変わっていく社会を実感している。
不安と焦り、人に囲まれながらの孤独に、囚われてしまいそうになるときに、鉄さんを思おう。
寡黙に、もくもくと働き、多くを望まず、恐ろしいような顔をくしゃくしゃにして笑い、関わった人たちや家畜たちに、しずかで素朴な情をかけて生きていく人。
そして、どこまでもこの大地にしっかりと繋がっていること。
遠く旅することもない。多くを知らない。それでも、遠く旅した人よりも、確かな知識人よりも、はるかに大きな知恵を大地から授けられている人。
そういう人の存在を、そういう人の歩みを、知らせてもらえたことを幸福に思う。



『ぼくの原野日記』
牧場を離れて後の根室で、四季の移り変わりのなかで、鳥や動物の姿を追い、人びととの関わりをスナップ写真のようにつづった小さなエッセイ集。
土地の人びととのつながりが深めつつ、徐々に、根室の地にしっかりと根付いていくようだ。もう旅人でもよそ者でも無い。