『かつては岸』 ポール・ユーン

かつては岸 (エクス・リブリス)

かつては岸 (エクス・リブリス)


八つの短編の舞台はいずれも韓国南部に位置するという架空の島、ソラ島です。
中央に高い山を戴き、風光明媚、森があり、草原があり、牧草地を駆けるポニーの姿が印象的な島。
この島はかつて日本に支配され、二つの戦争を経験し、忘れたくても忘れられない傷を背負っているようなものだ。
まだふさがり切っていない傷を、ちょっと浮かれた(?)リゾート開発が覆っていく。島自身が痛みに耐えつつ戸惑っているように感じてしまう。
島が抱えているのは、自分の痛みを持てあまして黙り込んだ人びと。
島はただ静まっている。


>二人で孤独に包まれていると、彼は沈黙に疲れを感じてしまった。自分の体が少しずつはぎ取られていくようで、どうして自分がこの牧場にいるのかわからなくなった。
一人で耐えることは辛い。けれども、二人いる孤独の深さは・・・。
相手の存在により、互いの孤独を思い知らされ、それぞれの苦しみを押し広げる役目をしてしまうこともあるのだ、と思う。
一人よりずっとつらい。


『かつては岸』は、大切なものを喪い、自分の感情の持っていき場をさがしているかのような二人の人間が出てくる。
よりそいつつ、相手をなぐさめつつ、でも、相手の顔に見ているのは自分自身ではないだろうか。
自分の喪ったものをさがしているのではないだろうか、そして、さがしものは決してみつからないことを確認しているのではないだろうか。


探し物は見つからないのだ。見つからないことはわかっている。わかっていながら、探し続けずにはいられない・・・
『残骸に囲まれて』の老夫婦も、『そしてわたしはここに』の主人公も・・・
(探しているのは、きっと自分自身なのだ。ありもしない自分自身の幻)
一瞬、静かな表情が割れて、はっとするほど激しいものが見えることがある。憎しみ。
この憎しみは、向かう先がみつからない。見据えるべきものを見据えることができない。(今更、いったい何になるだろう)
向かう先を失った憎しみはどうしたらいいのだろう。やがて、それはやっぱり内側に戻ってしまうのだろう。
ただ悲しい。


美しい日もあった。それが雲の切れ目から束の間さす日光のように明るく、印象的な一場面となって、胸にいつまでも残るのだ。
夫婦で見つめ合った日々。
ともに仕事をしながら親は愛しいわが子の未来を夢見る。
兄とともに海に船を出した秘密の冒険。
家を抜け出して恋人とともに走り抜けた街路、
生まれたばかりの子どもを奇跡のように抱き留めた日。
顔も身寄りもないふたりが姉弟のように身を寄せ合って描かれた絵・・・
その美しさは瞬間をとらえた写真のようで、決して広がることはない。何かに繋がることはないのだ。
そして、いつまでも重たい雲が垂れ込めた物語はやるせなくて、いったいどちらが幻なのかわからなくなってくる。
それだから、読んでいるわたしには、かけがえのない美しい光景として、もう忘れられないのだ。


そうした物語の中で『わたしはクスノキの上』が一番好きだ。
妻を失った男と、娘の暮らし。
上↑で引用した文章は、この二人の姿だ。
男は 子のことをわかっていない、今も昔もわかっていないし、これからもわからないだろう。
男自身がそれに気づく。それでいい、と思う。
それでも・・・きっと抱きしめることはできる。愛し、ともに暮らしていくことはできるのだ、と思えるから。
八つの色のない物語のうえに、ちらりと小さな光がひとつ落ちたように思えるから。