『こんな夜更けにバナナかよ』 渡辺一史


筋ジストロフィーで、人工呼吸器装着。
それでも、施設でもなく、病院でもなく、社会のなかで、「普通に」暮らすことを選んだ鹿野晴明さん。
鹿野さんが生きていくことの過酷さ、彼の運命の理不尽さには言葉もない。
自力で生きていく毎日は冒険であっただろうし、様々な活動で、身障者の声を発信し続ける人でもあった。挑戦者だったと思う。
その経歴だけ描き出せば、本当に勇気ある人すごい人だと思う。
しかし、この本は、美談ではない。


最初、わたしは『ピーティ』(ベン・マイケルセン)や『マインズ・アイ』(ポール・フライシュマン)を思い出した。
ベッドの上に横たわったまま、たとえ一生、体を動かすことができなくても、その体の中にどんなに広い海や空を持つことができるかということを。
でも、ここで、何一つ痛い思いをしない私が、その感動を持ちだしたら「きれいごと」になってしまう。
鹿野さんは少なくてもピーティではない・・・(そして、生き抜こうとするとき、まずはどうでもいいことだ)


確かに、障碍者、ボランティアという言葉は、あらゆる悪意や偏見を寄せ付けない、一種聖域のようなイメージがある。
でも、著者はそういう先入観をとりのぞき、鹿野さんとボランティアの生活を取材し、ありのままに描写しようとしていた。


鹿野さんの生活を支えたのは、大勢のボランティアたちだった。一日三交代四人。年間にしてのべ1400人のボランティアたち。
なぜ鹿野さんのまわりにボランティアは集まるのだろう。
素顔の鹿野さんは、ものすごく弱い人だった。弱いけれど、必死に貪欲に生きよう、生き続けようとしていた。
無償で彼の生活を支え続けるボランティアの人たちに対しても、時に尊大で、無理な要求を平気で押し通した。


一方で、
そんな鹿野さんの我儘(?)に根気よく付き合い、何年もボランティアで介助を続けてきた人びと。
彼らのことも、決して美談にはしない。
できるだけ正直な彼らの本音にせまろうとしたとき、見えてくるのは自分の弱さを知る人びとだった。


この本を読み始めたとき、実は鹿野さんのような重度の障碍を持った人の生活を支えるのが、若いボランティアたちである、という不安定さにも、不安を感じていた。
鹿野さんは、一瞬たりとも真にひとりぼっちになることができない。そうなったら生きていけないのだから。
だから、空白の時間ができないように、常時、ボランティア人材の確保、教育、時間のやりくり、スケジュール作り・・・それは鹿野さん自身がいつもいつも心を砕いていた。
それだけでも大変な負担であるし、それはなんとも心もとなく思えたのだ。
かといって、常時プロの介助者に頼り切ることは経済的に難しい。
なんとかならないのか、と気になって仕方がなかった。


けれども、鹿野さん周辺に限っていえば、
ボランティアたちは、プロとは別の種類の責任感・使命感を持って動いているように思えた。
それぞれがそれぞれの価値観を持って鹿野さんに対するため、時にはその規範に一貫性がなくなるし、時には鹿野家が鹿野さん本人を置き去りにしたボランティア生たちの一種の部室状態になったことさえもあったそうだ。
そういう欠点もあったけれど、ボランティアたちは、損得勘定一切ぬきにして、とことん鹿野さんとつきあおうとしていたと思う。
プロではなくボランティアだからこその犠牲もあったし、ボランティアだからこそ不満や恨みを互いにぶつけ合ったりもしたし、ボランティアだからこその友情が生まれ、理解も生まれたし、一種の家族ができあがっていた。


支えつつ支えられる。生かしつつ生かされる。
どちらが強者・弱者ということでもなく、どちらが尊いという話ではもちろんなくて、障碍者と健常者とが、互いに寄り添い合って、必死になって「普通」を支え続けているのだということに、驚く。


けれども、著者は、この本をいつまでたっても書きあげることができなかったそうだ。
とうとう鹿野さんが亡くなるまでに間に合わせることができなかった。
著者は、鹿野さんとボランティアたちに入りこみ、取材を続ければ続けるほど、迷いが深まってくる。見えていた、と思っていた物が違うことに気がついてくる。
鹿野さんも正直だったけれど、著者も正直に、書けない、見えない、自分をさらしていた。
その焦燥感が、リアルに伝わってくる。そして、著者の迷いを通じて、著者の、誠実さに触れたように思え、著者の迷う言葉に心動かされている。

>・・・私がたどり着いたのは、とてもシンプルな一つのメッセージだったように思うのだ。
 生きるのをあきらめないこと。
 そして、人との関わりをあきらめないこと。
 人が生きるとは、死ぬとは、おそらくそうしたことなのだろう、と私は思い始めている。
と、この本は結ばれる。しかし、おそらく、この本は終わらないのだ。
鹿野さんは亡くなってしまったけれど、鹿野さんと関わった人びとに、そして、この本を読んだ人びとに、まだまだ迷い続けよ、と迷いの道を示しているような気がしている。
私たちは死ぬまで、様々な形で人との関わりを続けていく。迷い迷い、ときどきぶつかりながら、さらに先へと進んでいくのだろう。