『わが家の人びと―ドヴラートフ家年代記』 セルゲイ・ドナートヴィチ・ドヴラートフ

わが家の人びと―ドヴラートフ家年代記

わが家の人びと―ドヴラートフ家年代記


父方の祖父.祖母、母方の祖父・祖母、それから叔父たち、伯母たち、いとこ、両親、妻、子・・・と、この大勢の人たちは作者の家族なのだ。
一緒に暮らしていなくても、ほとんど連絡を取ることさえも適わなくなったとしても。
それぞれの性格や作者との関係を表す様々なエピソードは飄々としたユーモアに満ちている。
途方もない一家なのだ。そのユーモアのスケールの大きさ(?)――でも、これは笑っている場合だろうか(笑ってしまうけど)
時々ぎょっとして、どんな顔で読んでいたらいいのか、と困ってしまったりするのだけれど。


作者は大ぼら吹きらしい。
書かれている物語を全部信じちゃいけないらしい。
でも、浮かび上がってくるのは…
文章が飄々としているため、そして、あまりに淡白なために、そういうものを描くのが目的じゃないんだろうな、と思ってしまいそうだけれど、でも、ほら話を削っていったら、それが残るんだもの。
ちらちらと垣間見える互いを思いやる心、結束の固さに打たれもしたし、ちょっと羨ましくも思っている。


そして、彼らの結びつきのさらに先には、ここがスターリン下の旧ソ連である、というシビアな事情がある・・・
訳者あとがきの中で取り上げられていたあるインタビューでの作者のスタンスについての言葉、

>「私は一生の間、自分以外の何者を代表したこともないし、いかなる組織にも協会にも属したことはない」と述べたうえで、自分のことは「作家」ではなく「語り手」だと考えたいと明言している。「人がどのように生きるべきか」自分は指図しようとは思わない、自分に興味があるのは「人がどのように生きているか」だ
という。
だけど、ほんとうにそうなのかな。
ある人を描写しようとするとき、その人のどの部分を取り上げるかで、作者がどのような立ち位置にいるか、見えることもあると思うのだけれど。


笑っている場合ではない恐ろしいことと背中合わせの日常だったのだ。
逮捕・投獄・銃殺(それも無実の罪での)は、珍しくもない生活の一部だったのだ。密告も奨励された時代であった。(事実、突然ドアはノックされるのだ。)
そういう現実に対する憤りや悲しみが、どの章でも、なんだか持て余しもののようにくりかえされ、隅に押しやられていく。笑うに笑えない悪い冗談みたい。
だけど、この本を読んでいるわたしは、やっぱり笑うのだ。
彼らは自分の人生を笑い飛ばすことのできるおおらかさと逞しさを備えているのだから。(このおおらかさは、一つには、この国の風土が産み落としたものだろうか)
彼らの人生は豊かだ(と思う。)(そんなことまじめな顔で言ったら、しらけるからやめろ、と言われそうな気がする。)


だけど、わたしにはもう、彼らがそれぞれ忘れられない人になってしまった。
力持ちの巨人だった父方のおじいさん。めちゃくちゃな天才いとこ。詐欺師のおじさん。息子に一途な愛情を注ぐ母。大抵の場合、動じることなくお茶かコーヒーかと尋ねる妻。父が娘にしてあげた寓話も。・・・だれもかれも。
どんなに狂った指導者のもとでも、とんでもない法がまかり通っていても、彼らの人生観を捻じ曲げることはできない。
大切な家族ひとりひとりへの照れ隠しのラブレターかも、とひそかに思っている。