『エドウィン・ドルードの謎』 チャールズ・ディケンズ


ディケンズ最晩年の未完のミステリー小説とのこと。
物語はこれでやっと半分なのだそうです。
未完(ミステリなのに!)とわかっていても最後のページまでおもしろく、最後のページのさらに先(!)までおもしろい本でした。


大聖堂を中心にした静かな町。聖職者たちが中心にいる町です。
墓の下の死者たちも、生者たちとともにこの町で静かに暮らしているのではないか、そんな気がする町。
汽車はすでに走っていたけれど、この町には止まりません。今までもこれからも。


「事件」が起こるのは、やっとこの本の半分くらい。読み始めて200ページを優に超えたころです。
しかも、事件が起こった時には、(読者には)犯人はすでに大体わかっています。(そうじゃないなんてことがあるだろうか?)
「まだ起こっていない事件」のための準備が、その町のなかで、誰も知らないうちに着々と周到に整えられていたのだから。
それを読者は残らず見ていたのだから。


ミステリアスなのは事件ではなくて人間。
この物語の重要人物の一人である「彼」の複雑さから目が離せない。その闇の濃密さ。苦悩の複雑さ。ものすごく強く感じるけれど、一方で儚いような部分もあると思う。
一方の個性があまりに際立っているため、反動で、その反対の場に立つ人たちの清明さ・美しさが、ときにコミカルにさえ感じる(そして、それもまた際立って見える)
小さな町の中で、沢山のドラマが起こっています。
役者はそろい、大道具小道具はほとんど明かされていると思うけれど、それらをどのように並べたら、はっきりくっきりした絵になるのだろう。
その前にまだいくつかの波乱があるんだろうな。
さあ・・・というところで、物語はぷつりとと途絶えてしまう。ああ。


でも、うれしいのは訳者の解説。
伺い知ることのできないこの物語の先を(少しだけ)、生前ディケンズは、親しい友ジョン・フォースターに語っていたのだそうです。
そうした資料を中心に、初版本の表紙画や、ディケンズ本人の書き遺したメモなどを参考にして、物語の先行きを、「解説」において訳者は鮮やかに推理してみせてくれるのです。
(ことに表紙画の意味を解き明かそうとする試みは面白かった。)
この「解説」が興味深いのは、様々な仮説をたて、それぞれの仮説に、それぞれの裏付けを披露してくれること。
いろいろな場面において、「そうであった場合」「そうではなかった場合」を想定し、どっちもありだよ、と読者の前に広げて見せてくれる。
その導きのおかげで、こちらとしては、さまざまな展開、ラストシーンを思い描きます。
登場人物それぞれのロマンスまで! 
楽しかったけれど・・・なんと、気がついてみれば、本編を読み終えた時よりもさらに深い迷宮に迷いこんでしまっているのではないかな。
迷うことが楽しい迷宮。
「解説」はもうひとつの「エドウィン・ドルードの謎」だった。