『マクリーンの川』 ノーマン・マクリーン

マクリーンの川

マクリーンの川


天才フィッシャーマンの弟と、兄である「私」。
舞台は、モンタナ州の数々の美しい渓流。


思えば、川に関係する本は、素晴らしい(作中の父の言葉を借りれば「ビューティフル」な)本が多い。
川はずっと身近な存在だった。いつも生活のそばには川があった。(人は太古の昔から水辺で生きてきたのだ)
私の中にも川がある。血という川が。
そして、また、時間の流れもまた、川だ。
人の一生も・・・


川をみつめ、ロッドを振る。
優れたフィッシャーマンの所作は、美しい。ことに弟の姿は美しい。最初に表れたその姿が目に焼きつく。最後まで弟の素の姿として。
それだから、彼の他の場面・時間がどんなものであったとしても、渓流で魚たちと格闘している時が彼が最も自分らしくいられる時間なのだろう、と思うのだ。


物語のなかで、ひたすらに続くフィッシングからフィッシング。
その合間に表れる家族のきずなややっかいごと。兄弟それぞれを取り巻く問題。
互いに深く相手を思いながら、慕いながら、決して侵してはならない領域もまた理解している兄弟。
ふりかえってみれば、物語は最初から「そのこと」に向かっていたのだ。そのことを語るのに、川を舞台に選んだから、起こったこと以上のものが見えた。


「考えるってことは、結局のところ、気がついたものをまず見るってことなんだよな」
といつか弟は言った。
彼らは、見る。ただ見る。見えてきたのは何だったのか。「・・・そうすることで眼に見えないものすら見えてくるってわけだ」
そして、読者は見せられるのだ。
作中の二人が、見ている物を、見えないものまでも・・・


作者は「若かったころにわたしが愛し、理解しようとしてできなかった人」のことを描いた。
自然も人も同じくらい驚異なのだ、と感嘆しないではいられない。
理解しようとしてもできない点で。理解できなくても美しいと思えるという点で。理解できなくても深く愛することができるという点で。