『冬虫夏草』 梨木香歩

冬虫夏草

冬虫夏草


秋の日、綿貫征四郎は、旅に出る。鈴鹿の山を徒歩で歩いている。
ずっと帰らない犬のゴローを探しに? 伝え聞かされたイワナの夫婦が営むという宿を探しに? 
・・・旅の目的は、はっきりしているような漠然としているような。漠然とした目的とは別の、本人にもあずかり知らない何かの必然があるようにも感じる。
何しろ、『家守奇譚』の続編ですもの。「道」が開けたなら、ゆるり踏み出すのが自然かもしれません。
見送りは、生け垣の間にいつのまにか咲いていたという彼岸花。隣のおかみさんの言葉ではないけれど「吉兆なんだか凶兆なんだか」


秋とはいえ、まだまだ山は鬱蒼とした緑に蒸れるよう。それが明るいところに出れば陽射しはおだやかな透明感を増していることに気がつくのだ。征四郎の後に従うようにして読んでいれば、秋の山の気配を確かに肌に感じるのです。肌全体が喜んで呼吸しているよう。
そして、ぽつぽつと表れる小さな小さな山里。秋の夕方の煙の匂いもなんだかゆったりと懐かしい。
旅人を迎える人の素朴な心遣いも気持ちがいい。
でも、それだけではない。どこにもこの世ならぬ怪異(?)が空気の中に混じっているようなのだ。
当たり前の世界に当たり前ではないものが、当たり前の顔をして混ざっている、この不可思議なバランス。


冬虫夏草
初めて知った言葉でした。蛾に寄生する茸の一種のことだそうです。=サナギタケ

>――幼虫のうちに糸状菌の一種に感染し、菌糸が内部で繁殖、ちょうどサナギになったときに体表を突き破って子実体が外へ現れるんだ。根っこの部分はサナギに繋がっている。
なんとも気持ちの悪い話。あまりその姿を想像したくないのだけれど・・・
征四郎が旅の道々巡り合う者たち(人も人ならぬものも、どちらともつかないものも)を、この濃い山の空気の中で見ていると、確かに細い道が、この世ではないどこかに通じている、それも一筋二筋ではないのだ、と思えてくる。
目に見えないたくさんの道がこの世とあちら(どんな世界だろう)とをつないでいるのかもしれない。
そんなことを思うと、その道が、冬虫夏草・・・幼虫のうちに繁殖するという無数の菌糸におぼろに似ているのではないかと思えてきました。
神羅万象、大きく見れば、そもそもはひとつのもの、周囲の条件によって、現れる特質、形状が違ってくるというように考えられるのではないか。冬虫夏草はその象徴的な物とも思える。
さまざまな不思議を、まるで風や光を感じるように、あるがままに受け入れ、過ぎ去っていくに任せ、追わない。己の分限を越えることはしない。
ゆるやかに歩いていく征四郎の姿を見ていると、見えないものたちと見えないままにともに生きているのだ、自分もまたこの世の怪異の小さな小さな一つなのだと思えてくる。


マツムシソウの咲き乱れる原、どんなに素晴らしい景色だっただろう。老女の目の端の涙がことに心に残っています。