『図書室の魔法(上下)』 ジョー・ウォルトン


私の暮らしの周囲には、思っている以上に沢山の種類の生き物がいるみたいだ。
でも、見ようと思わなければ何も見えない。気がつかない。
フェアリーや魔法もその類なのではないか、気がついていないだけなんじゃないか、と、物語(15歳の少女モリの日記)を読みながら思った。
モリが当たり前に見えいるもの、感じているものは、あまりにさりげなくて、誰もが敏感になれば同じことが体験できるのではないか、と思えてくる。
逆に、モリと接触するフェアリーや魔法は、あまりに過酷な運命を耐えるための孤独な少女が作り出した妄想、と取れないこともないのだ。


モリの双子の片割れ(自分の半身のようだった)モルは亡くなってしまった。
走ることが大好きだったモリは足の自由を失い、杖がなければ生活できない。
実の母から逃げ出して隠れ、自分が赤ちゃんだったころ別れた父(と三人の伯母)に引き取られるが、まるで厄介払いのように全寮制の学校にいれられてしまう。
いったい何があったのだろうか、なぜそのような状況になったのだろうか・・・
モリの言葉で少しずつ明らかになってくるのだけれど、どんな理由があるにしても、15歳の少女には過酷すぎる現実である。


孤独で臆病なモリを守り、支えながら、やがては、その守りの壁を崩し、その壁の内側に明るいもの、温かいものをもたらしてくれたものがある。
本。
モリの本への愛と造詣、それもSFへの愛は半端ではない。その読みこみの深さや鋭さも半端ではない。
彼女の日記の中に次々に表れる作者名、タイトル、あれもこれも、めくるめくようで、心が躍る。
私の読んだことのある本も少しはあって、それについて、彼女が熱く語る言葉には唸ってしまう。まるで、彼女と、本を通して感動を分かち合い、あるいは気がつかなかった視点やその先にあるものを教えられ、驚いたりしている。なんて豊かな世界!
そんな読み方のできるモリだから、彼女の読んだ、わたしの知らない本(膨大!)やタイトルだけは聞いたことがあるぞの本(これも膨大!)がやたら気になって仕方がないのだ。


SF好きの彼女だけれど、SFへの愛から波及して、「共産党宣言」やプラトンの「饗宴」まであっさり読みこなしている。おそるべき読書力!
でも、ほかのジャンルは? たとえば・・・
モリは、学校の図書室にある中高生向きの本について、このように語るのだ。

>・・・内容はどれも退屈そうだった。ドラッグ、理解のない両親、セックスしか求めないボーイフレンド、アイルランドでのつらい生活―こういう本がわたしはいちばん嫌いだ。まず、物語があまりに重苦しすぎる。そしてどの主人公も、最後には必ず問題を克服し、世のなかの仕組みをより深く理解したうえで大人への階段を上がってゆく。一話残らずこのパターンであると断言しても、まったく問題あるまい。
(この意見については、言いたいこともあり、賛成しかねているわたしではあるけれど、それはひとまず置いておくとして・・・)
物語を最後まで読み終えてから、このくだりを振り返ってみて、思わず笑みがこぼれてしまった。
これは、もしや、作者の挑戦文ではないだろうか?


モリの歳はまさに『中高生向きの本』にどんぴしゃりの15歳。あまりに過酷な荷を背負って読者の前に登場した主人公である。
たとえば、自分が、他の誰でもない、かけがえのない唯一の存在であると知ること。自立すること。
たとえば、大人になりかけの娘にとって、母はいつでも魔女たり得るし、精神的親殺しは『中高生向きの本』の普遍的なテーマでもあるはず。
この物語(モリの日記)が、彼女の嫌う“退屈で重苦しくワンパターンな「中高生向きの本」”とどう違うのだろうか・・・


下巻巻末の、堺三保さんの「解説」に書かれている「本書に描かれている最大の魔法は『読書の愉しみ』」との言葉に強くうなずく。
この本を特別なものにしている一番大きな要因は、フェアリーの存在でも魔法の存在でもない。
本―読書の魔法。
物言わぬ本が、だれでもどこででも手に取ることのできる本が、こんな力を秘めているのか、人の心になんという作用をしてくれるのか、と驚く。
感動を分かち合える仲間の存在や、こと本を愛するということについては年齢は関係ないのだ、と・・・そうだ、魔法は働き、大きく遠く波及していく。
しかも、この魔法は、読書を愛する者たちだれにでも作用するのだ。
魔法にかかるのは簡単だ。読めばいい。読んで読んで読めばいい・・・それだけですでに極上の魔法のはじめの一歩にかかってしまっているのだ。


清々しさいっぱいに読み終えて、この本のサイドストーリーが書かれないものかなあ、と強く願っている。
モリの親族のあの人たちや、この人のことも、それからあの人とモリの未来も・・・大いに気になるのだから。