『読書からはじまる』 長田弘

読書からはじまる

読書からはじまる


読書のむこうに、言葉がある。
読書をつきつめていけば、「言葉」になってしまう。
人・自分の存在より先にまず言葉がある。のだとしたら、言葉が豊かでなくなった世界では、言葉が滅びていく世界では、人は生きられるのだろうか。
「言葉」と、言葉の集大成のような「本」というものが、絡まり合って、「読書」というものが豊かなイメージになっていきます。
どのように本に向き合うかということは(読まないことも含めて)どのように生きるか、ということでもあるのだろう。


本という文化が長年かかって培ってきたものは、本に書かれているものを通して、そこに書かれていないものを想像させる力です。今日、わたしたちの社会がぶつかっている問題は、書かれていないものを必要とする考え方をなくしてしまったことに起因している、そのためにとまどっているように思われるのです
書かれているものを読みながら、書かれていない物を読むことが読書・・・なぞなぞみたいだけれど、それは覚えがあるような気がする。この本好きだ、と思うのは、その本の行間から立ち上ってくる何かが好きなんだ、ということでもあるのだ。
大好きな本を久しぶりに読みなおしてみた時、書かれているはずだと思った言葉がどうしてもみつからなくて、やがて、それは自分が(その本から)想像したものだったんだ、と気がついたこともあった。
本を読みながらそういう体験をさせてもらえるってことは幸せなことだと思う。
そういうことが、本の「外」の世界の「行間」にも、いつか繋がっていくのかもしれない。


子どもの本がどんな本とも違うというのは、子どもの本というものは子どもの本であって同時に大人の本でもあるからです
子どもの本が大好きな大人なので、第四章「子どもの本のちから」はことに心に残る頼もしい言葉がいっぱいで嬉しくなってしまった。
「絵本は、けっしてあっという間に読むための本ではありません
絵本のような子どもの本から手わたされるのは、その絵本がもっている時間です。もう一つの時間、アナザー・タイムが、そこにある。絵本を読むというのは、絵本のもつ時間の感触が自分のなかにのこってゆくという経験です。
絵本のような子どもの本の読み方に教えられるのは、読書というのは自分の時間の手に入れ方なのだ、ということです。
また「子どもの本になくてはならない三つのもの」(=「古くて歳とったもの」「小さいもの」「大切なもの」)
こういう見方(?)には初めて出会いました。そういわれてみれば・・・と知っている子どもの本のあれこれを思い出しています。
この本あの本のなかに形を変えて登場する三つのものを探してみよう。宝探しみたいだ。


情報と記憶のちがい、「分ける」文化と「育てる」文化のちがい、

限りなく存在を薄切りにしてゆくのが情報だとすれば、可能なかぎり存在を厚くするのは記憶です
本の世界にあっても、本が個々人の読書のための本でなく、情報のデータのための本のようになって、日々に次第に失われてきたのは、読書という親しい習慣です。本を読む人をつくりだすのは、習慣としての読書です。情報としての読書がつくりだすのは、本を読まない人です。
情報を手に入れたくて本にあたることと、楽しみのために読むことを同じように『読書』と呼ぶのは、なんとなく違うような気はしていた。
著者の言葉は厳しいけれど、納得できるものだ。
情報はやっぱり必要だよねえ、本から情報を収集するのは悪いことではないよねえ・・・しかし、生半可な情報収集は、ただ情報に振り回されるだけで終わってしまう(ワタシノバアイ)。それは、もしや、本から情報を得ようとするとき、情報「だけしか」求めようとしないからではないか、とぼんやりと思い始めました。「本に書かれているものを通して、そこに書かれていないものを想像させる力」に気がつかなければ、求める「情報」さえも使いこなせないのかもしれない。
行間を読めないような(書かれていない言葉を読めないような)読書は、あまり意味がないのかもしれない。
わたしたちに求められていることは、何でしょうか。言葉を信じるに足るものにすること。それだけです
著者の「言葉」に対する真剣で誠実な姿勢を感じる。何の気なしに読んでいるあの本この本だけれど、自分の暮らしの中で「読書」が大切な習慣であり続けること、楽しんで本に向かい合うことで、知らず知らず「言葉」を耕しているのかもしれない。豊かな「言葉」の奥へ、ゆっくりと進んでいけるような気がする。


「あとがき」のなかに「人生の贈り物としての読書」についてうたった幕末の人、橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌が三首、引用されていましたが、それをそのまま書き写します。

たのしみは 人も訪(と)ひこず 事もなく 心を入れて 書(ふみ)を見る時
たのしみは 世に解きがたく する書(ふみ)の 心をひとり さとり得し時
たのしみは そぞろ読みゆく 書(ふみ)の中(うち)に 我とひとしき 人を見し時
150年以上前に生きた人の歌に、自分の「たのしみ」を重ねることをよろこびながら、この本を振り返っています。
いついつまでも読み切れない膨大な本が手の届くところにありますように。
たのしんで、ただたのしみのために本を読める日々でありますように。
さらに、読書に心地よい椅子がみつかりますように。