『鴎外の子供たち』 森類


著者は、鴎外の末っ子、類。
姉・茉莉の離婚にまつわる部分など、姉たちの顰蹙を買って、ごっそり削除されて世に出た本だそうだ。
ひどいところを削ってなお……これである。
しかし、意地悪で書いたわけではない。天真爛漫で正直なのだ。
「あたしたちを一人ずつ俎板の上に連れてきて、好きなように料理されてはたまらないと、二人の姉から毛虫のように忌みきらわれ、今は会うことも許されなくなっている。」
こんなふうにまえがきに書いて、悪びれない、永遠の坊ちゃんのようだ。
身内のこともひどい書きようだけれど、それ以上に、自分自身の書き方がひどい。


「頭に病気のある子が二人いますが、病気のない子では類さんが一番できません」と類の小学校の先生に呼び出されて言われた母・志けは、極度の失望から「死なないかなあ、苦しまずに死なないかなあ」とつぶやいた、というエピソードは強烈だ。
鴎外の悪妻と噂された志け。その噂は本当かどうか、というよりも、呆れるほどに天然な人だったのだろう。正直すぎて憎めない。
次々に出てくる類本人のダメぶりに呆れて、そこまであけすけに書かなくてもいいのに、とはらはらしてしまうが、そこに卑屈な感じはない。なんだか健康的な自己肯定感(?)がある。母同様に、類も天然の人なのかもしれない。


父・鴎外ありし日の親子の暮らしは、深い愛情に守られ、周囲からちやほやされて、眩しいくらいの華やかさだった。
それだけに、父が亡くなった後の母志けを中心にした暮らしは、寂しい。
物質的には、父の遺産・印税のおかげで、庶民と比べれば、そこそこ(いや、相当に)豊かだったのではないか、と思うけれど、後ろ盾もなく、光の当たる場所から影に追いやられたようで、侘しく感じた。


家族の苦労も心痛も、ときどき滑稽に感じるのは、類の筆にこもる、不運や不幸さえ笑い飛ばそうとするユーモアのせいだろうか。
それとも、それぞれがあまりに突出した個性の持ち主だからだろうか。
なんという濃い家族だろう。
彼らの個性(底力)は、父の死後の質素な生活の中でこそ、目を覚まし、輝くようだ。
起きたことが非凡だったわけではなくて、彼らの個性と心のありようが、非凡だったのだと思う。


「出来が悪い」とはとても思えない筆力に(兄姉たちを始め、取り上げられた人々には申し訳ないけれど)読者としては、すごく面白く読んだ。
母・志け。異母兄・於菟。二人の姉・茉莉と杏奴。本人・類をも含めて、それぞれがなんと愛おしい人たちなのだろう。そう思うのも、悪意のない書きぶりのせいだ。
随筆(私小説?)というより、大河小説を読んだような充実感だった。