『もう一度』 トム・マッカーシー

もう一度 (新潮クレスト・ブックス)

もう一度 (新潮クレスト・ブックス)


その「事故」のおかげで、大けがをして、記憶まで失ってしまった「僕」
関係することといえば、空からの落下物。テクノロジー。かけら。破片。
物語の始まりは、「示談」
莫大な示談金を受け取る代わりに、事故のことは一切語らないことを約束する。


なぜ語ってはいけないのか。本当は「僕」の身に何が起こったのだろう。そもそも、この示談を提示したのは誰だろう。
気になって気になって。
主人公があまりに無頓着なものだから、余計に気になって。
物語そのものも、あまりに無頓着にとんでもない方向(驚くような、という意味ではなくて、大問題を横に置いてよくもどうでもいいような方向に流れることができるな、という意味で)に進むから、余計に気になって。
読者としてはミステリを追いかける気分。主人公は見張られているのではないか、怪しいのはだれだ、あんなこと言っているけれど実はあの人は…などと想像したり、あれこれの事象や物体が、謎を解く鍵なのではないか、と知らないうちに吟味し始めている。
でも、物語も、主人公も、ほんとに、そういうことはどうでもいいと思っているみたいなのよ。どうでもいいかなあ、これ。ねえ。なぜ。それも一つのミステリじゃないか。
謎にひっかかりつつ、とりあえずは「僕」の語りに遅れないようについていく。


「僕」の記憶は徐々に戻りつつある。
戻りつつあるけれども、恐ろしく断片的で、しかも時系列が全くバラバラらしいのだ。
さらに、以前大切だと思っていた物が、今ではちっとも大切に感じられなくなっていたり、すっかり忘れてしまっていたすごく些細なことが鮮明に浮かび上がってきて気になって仕方がなくなってしまっている。物に対しても人に対しても。
そんな状況で暮らしていかなければならない一刻一刻はどんなにか苦しいものだろう。
しかし、それにしても読者の側からいえば、「僕」の感情の優先順位(といったらいいだろうか)の奇妙さが不気味だ。大切な記憶と些細な記憶が入れ替わったせいだろうか。それが、こんなに奇妙で落ち着かない気持ちにさせるなんて。薄ら寒いような怖さもある。
美しい表現で、「僕」はこのように分析する。

僕の記憶は鳩で、あの事故は大きな音のようなものだ。鳩たちは、音にびっくりして飛び去った。やがてバタバタと舞い戻ってきたときには力関係が変わり、かつては冴えない場所にいた鳩が、もう少しいい場所におさまった。


ありあまるほどの(大概のタブーを突き破っておつりがくるほどの)財力を持った狂気(?)が起こす事業は、目を剥くほどスケールが大きいし、大きいだけに空っぽ感もすごいし、大きいだけにその怖さは底がない。


「僕」の感情の動きの不気味さはなんだろう。固執するものと逆に散漫になるもの、喜怒哀楽の表れ方まで、いちいち違和感を感じた。それが、狂気につながっていく。
記憶が断片、欠片になってしまうと、感情も、欠片になってしまうのだろうか。
そういう「僕」の視点から、どう考えても普通ではないことを普通に語り、あくまでも普通に普通に進んでいく強引な物語である。
強引な物語なら、途中でやめたくなるものだろう。ついていけない、いきたくない。だけれど、困ったことにおもしろいのだ。読みつつ葛藤している。


ひたむきに自分の中に残っているかけらを寄せ集めて、必死で何かを探しもとめている主人公。
何をさがしているかということさえも、きっとわからないのだ。みつかってみなければわからないものを、あるかどうかわからないものを、あると信じてさがしているのかもしれない。
どんどんのめりこみ、深みにはまっていくようで、はまればはまるほど、「さがしているはずのもの」から離れていくようにも思えて、でも目が離せない。
主人公の姿は鬼気迫るものがある。滑稽であるけれど、笑えない。せつなくてたまらない。
そうして、突き詰めていったら、いったいどこに行くのだろう。
もしかしたら、もしかしたら、あるのではないか。何かとんでもない何かがあるのではないか。主人公がさがしているものを私も見たい。見つけたいと思ってしまう自分に気がついて、どきどきしてしまう。

リアルになりたい、よどみなく自然になりたい、ただそれだけ。物事の根本から僕たちを遠ざけ、核心に触れることを妨げ、僕たちを二番煎じの二流に貶める迂回路を断ち切りたかったから。あのときの僕は、それがあと一歩で出来ると思った。