『そこに僕らは居合わせた』 グードルン・バウゼヴァング

そこに僕らは居合わせた

そこに僕らは居合わせた


白い色、黒い色。赤や青や緑や黄色。中間色に、その濃淡。いろいろな色がごっちゃに混ざっている世界がいい。
どれかに限定して偏ってしまうのは怖いと思う。ほかの色の存在を認めないと世界はどんどん狭くなるように思う。


ナチスの時代のドイツに暮らした若者たちを主人公にした(またはその孫世代たちがその当時を生きた人から聞いた)20の物語が収録されています。
二十人の少年少女たちを中心にした、彼らの周りのいろいろな世代の人々の物語。
どれも10ページ前後のとても短い物語ですが、どの物語でも、全く違った意味で、忘れられない印象的な場面と人に出会います。


第二次大戦当時、ティーンエイジャ―だった作者バウゼヴァング自身、学校やメディア、青少年組織から教えられたナチス思想を疑わなかった。彼女にとってヒトラーは英雄だった。ヒトラー死亡のニュースを聞いたときは絶望して涙を流した、といいます。(あとがきより)
同じ時代の日本での自身の青春時代を振り返った、田辺聖子の『欲しがりません勝つまでは』(感想)を思い出しました。
熱心な軍国少女だった田辺聖子(そしてたくさんの日本の若者たち)とドイツの若者たちはなんてよく似ているのだろう。
子どもたちは、そろって同じ言葉を唱え、同じ将来に憧れ、同じゴールを目指して元気に足並みそろえている。その純粋さが痛々しいのです。
まっさらな子どもを故意に一つの偏りに追い込む作業を教育と呼ぶなら、なんと素晴らしい教育の成果。
いいえ、これは教育ではない。
これは洗脳だ。


もうひとつ思い出したのは、鳥山敏子の『いのちに触れる』(感想)第二部の一節です。
小学校の教師である鳥山先生は、(今から50年も前)原発を危険だと、感じていた。しかし、鳥山先生は「子どもたちをかんたんに「原発反対」という子にしてはならない」と考えます。
何かに反対することを教えるのではない。何かに賛成することを教えるのではない。そういうことは。考えることを放棄するように教えるのといっしょのような気がします。
自分で考えて自分で選び取らなければ、きっと意味がないのだろう。そして、自分で考えられるように育てるって、とても大切でとても難しい。
(すぐに答えを出せないものに限って、「今すぐ! 白か黒か!」と迫られるような気がする。せめて、子どもたちのゆっくり考える時間を、何も言えない時間を、守ってあげたい。)


この本『そこに僕らは居合わせた』の訳者あとがき「忘れないための物語」のなかには、バウゼヴァングの作品について、このように書かれています。

>どのバウゼヴァング作品も、背景にあるのは自分でものを考えることをしなかった(できなかった)時代への猛省である。聞いたり教えられたりしたことを鵜呑みにしてはいけない。人に判断を委ねてはいけない。自分の頭で考えなさい。いのちを脅かすものから身を守るためには、そのように自らを教育することが必要――それが著者からのメッセージだ。


自分で考える訓練を怠ったまま大人になった人々が、この本の中にはたくさん出てきました。
ただ、「そこに居合わせただけ」の、居合わせた場所で、みんながやっていること、上がそうしてほしいと望んでいることを、積極的にやっただけの人々。
(罪の意識を感じながらも、自分の愛する人たちを守るために口をつぐみ、苦しみながらもそれをしなければならなかった人たちも含めて)
世の中がひっくり返れば、すばやく身をひるがえし、不都合な過去は「なかったこと」にしてしまおう。そのようにしてきた人々の集団。
おぞましい、浅ましい、と思いながら、わたしには彼らを責めることができません。責めるよりも恥ずかしくていたたまれなくなる。みんな私によく似た人たちなのです。私だったかもしれない人たちなのです。
先日読んだばかりのハンナ・アーレントイェルサレムアイヒマン』(感想)を思い出します。


ものすごい勢いで、何もかもが一つの方向に偏っていく時代に、自分の頭で「考える」こと、大きな流れに染まらないようにすることは、勇気がいる。とても勇気がいることだと思います。
そう思いながら、20の物語を振り返れば、あちこちに勇敢に生きた人々の小さくも明るい光が(極めて明るい光が)静かに静かに輝き続けているのを見てとることができます。道しるべのように。
どんな時代であれ、自分自身を教育し、理想をゆるがせにしなかった、名もなき人たちが放つ光でした。