『野鴨』 庄野潤三

野鴨 (講談社文芸文庫)

野鴨 (講談社文芸文庫)


巻末「単行本あとがき」から。

>ここに描かれているのは、離れて暮らしている身内、結婚式、クロッカスの花、雪解けの賑やかな雫、雉鳩、うぐいす、赤ん坊の歯、かまきりと『アマリリス」、パン屑(中略)などから成る世界である。
はかなく、取りとめないが、もしもこのうちのひとつでも欠けたら、私はきっと味気なく思ったに違いない。

庄野潤三さんの、「はかなく取りとめない」日常の物語が好きです。
取りとめのない出来事は、わたしの脳みそから湯気とともにどんどん蒸発していく。何がどこに書かれていたか、ちゃんと思い出せない。忘れてしまいます。
でも、開き直ります。忘れていいんだ、と思う。忘れた後に残るエッセンスのようなものが好きなんだ。
とりとめないけれど、ひとつでも欠けたらきっと味気ない、と思うものを重ねつつ、私も生きてきたのだ。
あわただしかったり重たかったり、しんどいことなんかが押し寄せるとき。または、華やかなイベントに振り回されてちょっと疲れたな、と感じる時。そういうときに「とりとめのない」日常を振り返れるって、うれしい。ほっとする。
それを思い出すために、やっぱりまた庄野さんの本を読みたい、と思います。


この本『野鴨』もそういう本なのですが、おや?と感じたのは、現在進行形の日常の中に混ざる思い出話が、とても多いこと。
家族の昔(過ぎてしまって二度と戻らない過去)の、ある瞬間の出来事をふっと思い出して、取りとめなく語ってみたりしている。
子どもたちの幼いころのこと。亡くなったお母さんのこと。ずうっと会っていない知人のこと。
それから、二十年も前に亡くなった長兄がふいに夢に出てきて会話したり、次男良二が「誰か、いや何かが部屋にいて、見ているような気がした」という幽霊話然とした話も混ざる。
作者も歳をとられたのかな。
何やらざわざわしたものを感じて、この日々のとりとめのなさは、微妙なバランスで成り立っているのではないか、とも思う。


また、今ここで紡がれるささやかな家族の物語は、忘れ去られた人々とのかけがえのない時間の続きなのだ、と思う。過去はちゃんと現在に続いている。
時は流れていく。
ささやかな喜怒哀楽とともに暮らすこの一瞬一瞬も、過ぎて行ってしまう。だれも覚えていないかもしれない。
でも、この続きの物語が、どこまでもあると感じている。それがいいんだ。