『言葉が立ち上がる時』 柳田邦男

言葉が立ち上がる時

言葉が立ち上がる時


極限状態で、立ち上がってくる言葉がある。
考え抜かれ、吟味され、推敲を重ねた言葉ではない。
削られてもいない、磨かれていもいない、ごつごつした感触の言葉。それなのに、その言葉が激しく人の心を打つ。


世の中には、滑らかな感触で、きらびやかに飾り立てられているのに、心の奥まで届かない言葉があまりに多くて。
ごまかしたり、巧に何かとすり替えるために、重宝に使われる言葉が痛ましい。おかしな言葉が横行する。
こんなこと言っている私自身もまた、その場しのぎのように、まやかしの言葉を使っていることがある。慣れてくると、おかしいと思わなくなったりするだろうか。
そうしたら、言葉そのものに意味がなくなってしまうのではないだろうか。
きれいでなくてもいい。威勢がよくなくてもいい。意味のある言葉が恋しい。


「人間が生きる瞬間にはドラマティックでかけがえのない瞬間がいかに密度濃く刻まれているかということだ」と著者は言います。
ドラマティックな時間。その時間は、できれば経験したくない時間でもあるはず。
「人が限界状況の中に放り込まれた時に生み出す言葉の、何と豊かですばらしいことか」という言葉も。
それは逆説ではない、皮肉でもない、安易な慰めでもない。
著者が次男を喪った体験がこの本の底にあるように思う。ここで、その体験に対して『痛ましい』とか『過酷な』という感想は上っ面でとても不似合、一番ひっこめたい言葉だと思った。
そして、「ドラマティック」という言葉が、「豊かな」という言葉が、ステレオタイプな悲しい言葉の代わりに立ち上がる。
死にゆく人とともにあり、言葉の海をつきつめてつきつめてきた著者だからこその言葉なのだ。
著者と次男とのやり取り・・・残されたのはわずかな言葉。でも、そのわずかな言葉の奥には、なんて芳醇な森があるのだろう。海があるのだろう。
その海は、震災の被災者や、不治の病に倒れた人、そして、遺された人々へと続いているようだ。
過去に残された大切な言葉の財産にもきっとつながっている。


別れは、ただ別れていくことではないのだな、と感じた。
どうしたら、体まで引き裂かれるほどの苦しみ、悲しみを体験しながら、それが、かけがえのない時間=ドラマティックな時間と思えるようになるのだろうか。
バラバラに砕け散ってしまったものを、つなぎ合わせるものがあるなら・・・
それは、もしかしたら、死と生を超えた(心と体とをつなぐ)「たましい」が顕わになる時なのだろうか。
「豊饒な言葉の海」という言葉も・・・その海の存在を明かされることは、別れていく双方の、双方に対する究極の贈り物なのだろう。