『雪の練習生』 多和田葉子

雪の練習生

雪の練習生


三つの連作短編という形で、三代のホッキョクグマがそれぞれの物語(自伝?)を語ります。
ホッキョクグマというからには、何も言われなくても、自身またはその親が北極地方の出身であろうと思ってしまうが、彼らは、ソ連やカナダ、東独などで生まれて育ち、実のところ北極を体験したことは一度もないのだ。
夢で彼らの先祖(母なるもの?)が語り掛けることもあるけれど、その祖先たちもまた、北極を知らない世代なのだ。
でも、彼らの血は、遠い故郷として、北極をいつでも懐かしんでいる。
彼らは自分の血族を思い、見たことのない故郷の空気を肌に感じ、自分が何者か、と考える。
人も熊も自分の根っこのありかを確認できなければ、ちゃんと上のほうへ伸びることができないのかもしれないね。


彼らはサーカスや動物園などに属して、人間(ホモサピエンス)によって檻に入れられ、鎖でつながれ、自分の意思に関係なく好きなところに売られ、時には殺されるかもしれない運命にある。
しかし、熊たちは夢を見る。
その夢が何とも美しい。そして、夢の中で、彼らはなんと自由で、なんと優雅で、なんと誇り高く気高いのだろう。
ことに美しいのは、彼らにとっての唯一無二の人間との交流。その豊かな心の通い合いは、人間同士のそれをはるかにしのいでいるように思える。独特の閉じた世界。
彼らの夢を追いかけると、現実を忘れる。


けれども、同時になんともいえない寂しさと悲しさに包まれる。
熊を縛る鎖も鉄格子も、淋しさの結晶のようだ。
そして、熊の夢を見ているのは、人間である自分自身なのではないか、この寂しさは、自分自身のものではないか、と思う。
逮捕、亡命、死、などの言葉がちらつく人間の暮らしもまた、ホッキョクグマと変わらない。
そして、逮捕も亡命も縁遠い言葉、と思う私の暮らしにも、別の檻があるだけかもしれない。
夢見る熊と人間とが、入れ替わったように思える。
彼らの夢、彼らの精神の自由さに触れれば触れるほど、さむざむとした孤独とどうしようもない閉塞感とが際立つように思える。


ひとつ、不思議に明るいイメージがある。物語のなかで、それぞれの物語の主人公たちは自伝をつづろうとする。
現実に起こったことありのまま、というよりも、心のありようのありのまま、という自伝。
この「書く」ということが、夢と現実を結ぶ鍵になっているようなのだ。
つかみどころのない、もやっとした記憶の片りんが、やがて、もっと形のはっきりした希望につながっていく、という望みをもって、「書く」という事を考える。
私はなぜ物語を読みたいのだろう。その理由と意味とが、ここにあるのかもしれない、と感じています。