『ワインズバーグ・オハイオ』 シャーウッド・アンダソン

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)


ワインズバーグは、のどかな田舎町。
巻頭に絵地図がある。メインストリートを挟んで並ぶ家並みは、新聞社も旅館も金物店も、美しい切妻屋根の家、広い敷地にゆとりをもって建っている。
そして郊外には、背の低い果樹の畑が続いている。

>熱い夏の夕暮れどき、道も畑も土埃で一面におおわれるころ、この平たい盆地には煙のような靄がおり、まるで海を見はるかすような景色になる。
美しい描写です。
そして、この風景描写が、この町の人々の姿を映しているようです。
何も事件が起こるわけでもない、平和な町。肥沃な土地に静かに暮らす、ごく平凡な人たちの共同体。に見える。でもそれは、靄がかかっているせいかもしれないのだ。
靄が晴れたら、ひとりひとり、みんな慌てるに違いない。忘れてしまいたいことが露わになって。
そしてね、この本のなかで、わたしは、ひとりひとりの靄の下の顔と対峙する。


巻頭で著者は書く。「グロテスクな人々の本」と。
一見ふつう。でも、見た目だけではわからない。誰もが人には言えない奇妙でへんてこな面を持ち合わせているのではないか。
それを持て余しつつ、抱えて生きていくしかない。
それを抱え込むことになってしまった理由は、それぞれに痛い。
掘り起こせば、孤独な魂に出会ってしまう。今自分が持て余している奇妙さは、忘れたいのに忘れえることのできない無理解と絶望の残り滓なのだ、と衆目の中に認めざるをえないから。
それはそっとしておかなくては。人々の目にさらしたら、きっとその人は壊れてしまうから。
ただ奇妙なやつだ、と人のことを揶揄したり、眉をひそめたりもしながらも、ともに暮らせるのは、だれもが、自分も似たような持て余しものを抱えていることを承知しているからだろう。


グロテスクは愛おしい。
それを抱えているから愛おしい。全うなんだと思う
本当は語る必要なんてなかったんじゃないか。それでも、この本は、連作短編として、ひとりひとりの特別な物語を、こっそりと伝えてくれる。
一話読み終えるたびに、ひとりひとりに一層親密な気持ちをもつ。


ただ、一人だけ例外がいる。
ジョージ・ウィラードという、ほとんど少年に近いような青年。新聞記者である。
彼にもグロテスクなところはある。でもまだまだ。もっといろいろあるでしょう。若いなりのいろいろが。
それが書かれないから、彼は一番捕えがたい人。器が好もしく思えるだけによりいっそう。彼が一番グロテスクだ
彼は小説を書いている。
この町を旅立つことを夢見ている。
彼は、この町の人々の将来の語り手となる運命を背負って、作者にこの物語のなかに送り込まれたのだろう。だから彼の弱みを見せてはいけないのだ。
彼は少しだけアウトローで、観察者なのだ。
彼のなかにもあるはずのもっともっと究極にグロテスクなところを描いたら、この物語は生まれなかったのではないか。彼に未来はなかっただろう。
もしかしたら、書く人である、ということが、彼の一番グロテスクなところなのかもしれない。


グロテスクでかわいい人々。
そして思うよね。それは、やっぱり、ごくごく普通の人々である、ということなんだなあ、と。
自分の親戚のような、親友のような人々が、この町で、身を寄せ合い、孤立しあい・・・そのようにして暮らしている。