『ことり』 小川洋子

ことり

ことり


歌いたくなければ歌わなくていい。そう言ってやるべきだったのだ。
私は子どもたちに歌い方を教えた。美しく歌うため、長く歌うための、いろいろな技巧を覚えさせ、その腕をあげさせてくれる師を探した。
それは、歌うことであの子たちが幸せになるようにと望んだからではなかったか。
聞いてほしい人がいたとき、あるいはいっしょに唱和したい人がいたとき、心を込めて歌ってほしい。
そう願ったのではなかっただろうか。
いつからだろう、そこに何か濁ったものが混ざりこんだのは・・・。濁っているということさえ気がつかないまま。
親はわが子の幸せを願う。でも、その幸せに、決まった形があるものだろうか。
決まった形を求めるとき、それは幸せとは遠いものになっているのかもしれない。


ことりのおじさん(主人公)のお兄さんは、11歳ころまでに、それまでに覚えた言葉を捨てて(?)自分で編み出した独自の言葉をしゃべり始める。
いったん身につけた言葉をすべて捨て去ることは、どんな意味があるのだろう。
お兄さんが新たに習得した、お兄さんだけの言葉はポーポー語と名付けられる。
この言葉、唯一、弟であることりのおじさん(当時はもちろん子ども)だけは、教えられたわけでもないのに正確に理解できた。お兄さんと会話できる唯一の人になります。
ポーポー語を仲立ちにした、ことりのおじさんとお兄さんの世界は、静かに輝く。
ポーポー語も輝く。私たちがふだん使っている言葉よりも確かな存在感をもって。
「言葉」というものがもつ意味が、なんとなく分かりそうな気がしてくる。
お兄さんのまわりには、彼が何を言っているのかきちんとわかる人(弟)、さっぱりわからない人(意味があると思わない人)、分からないのが悲しくて分かったふりをする人、などがいる。
ポーポー語って、どんな言葉なんだろう。
ふつうに私の耳に聞こえてくる(そしてわたしも発している)この国の言葉だって、ほんとうは、わかったふりをしているだけなんじゃないか、と思えてきた。そもそも意味があるのだろうか。
意味のない言葉しか語らないくせに、「丁寧に説明」して、相手に分かってもらう、なんてことがありうるはずがない。
嘘っこの言葉だ。嘘っこの言葉に耳が慣れてしまうと、本物の言葉が語られたとき、その言葉を聞きわけることはできないのかもしれない。
せっかく本物の言葉が語られているのに、その重さに気がつくことができなくて、おざなりに聞き流し、わかったふりだけで過ごしてしまっていたら悲しい。


言葉って何なのだろう、と思う。
言葉って、大切に相手に渡される、心のこもった贈り物のようだ、とこの本を読みながら思った。
定かじゃない相手に、贈ろうという意識もないままに、発される音は、最初から言葉なんかじゃないんだ。
おじさんは、あの日「歌わなくていい」といった。お兄さんはそれまでに身に着けた言葉を捨てた。
本物の言葉を、自分も相手も幸せにする言葉を選んだのだ。


ことりのおじさんは寡黙。
家族もいない、親しく交わる友もいない。不器用で、人付き合いが苦手で、変り者みたいで、浮いているように見える。
ほとんど言葉を発することはない。
おじさんが誰かに言葉をかけるとき、その言葉がいかに不器用でも、相手に対する心からの言葉なのだ、と思う。


おじさんの出会った人々(お兄さんや司書や、小鳥)の様子を読んでいると、おじさん自身が浮かび上がってくる。何を大切にして、どのように日々を過ごそうとしていたか。丁寧に向かい合おうとしたものは何であったか。
彼らは、おじさんが感じているのとは別の面も持っていたに違いないけれど、きっとそれらはどうでもいいことだったんだ。
読んでいるうちに、お兄さんも司書も、透き通ってきて、おじさんの中に消えていくような気がしてくる。おじさん自身の姿を映す鏡のように思えてくる。
入れ物はほんとに地味で、いびつ。でもその中にはこんなに美しくて繊細なものが入っている。